カネボウとJAL、今だから知りたい明暗の裏側 ともに大型倒産、その後は何が違ったのか
訪れるとまず、秘書に社長室の前まで案内された。社長室の前に立っていると、別の社長秘書が近づいてきて筆者の名刺を受け取り、50畳はあろうかと思われる大きな社長室の中に入っていった。伊藤は、奥の立派なデスクの向こうにいた。秘書が筆者の名刺を渡すと、伊藤は一瞥して黙ってうなずいた。
筆者は、社長秘書に導かれてようやく応接椅子にたどり着き、社長に一礼して椅子に座ることができた。筆者は、事前に社長とのアポイントをとっており、まっすぐ社長デスクまで案内されるのだと思っていたので、その格式張った雰囲気に圧倒された。
後に伊藤は、カネボウでの経営実績が評価され、1985(昭和60)年には日航ジャンボ機墜落事故で経営再建が急務だった日本航空の会長に招聘された。しかし、労使対立が激しい日航では結果を出せず、1年余りで更迭されている。
組織ぐるみの粉飾決算が発覚
2000年代に入るとカネボウの業績は次第に悪化し、2004年3月、発足間もない産業再生機構による支援が決定。1000億円単位の国費が投入された。当時、売上高5000億円、従業員数1万4000人の老舗繊維メーカーの社長以下役員が総退陣したが、結果的には2008年に破綻することになる。
しかし、カネボウの破綻を、繊維が斜陽産業になったからとか、一部の経営者の問題などとして片付けることはできないように思われる。
カネボウは、繊維事業の赤字を化粧品事業が補完する収益構造で乗り切ろうとしていたが、売り上げ目標は達成できず、業績は急降下していった。その後、経営陣は、2001年度の債務超過を隠すために粉飾決算に手を染めていった。2005年5月、東京証券取引所はカネボウ株の上場廃止を決定する。
そのカネボウの最後の社長が、中嶋章義だった。中島は、赤字を垂れ流してきた不振事業の整理・再編を進めるとともに、粉飾に手を染めた歴代経営陣の責任追及をする役割を担った。結果、2005年7月、前社長・帆足隆らが証券取引法違反容疑で逮捕された。さらに2000億円超の粉飾決算が明るみに出て、前述のとおり、カネボウの株は上場廃止の運命をたどる。
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