SL時代も今も絶景「只見線」撮り続けた50年の記録 新緑・紅葉・雪景色、"秘境"奥会津を駆ける列車

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第三只見川橋梁
雪晴れの第三只見川橋梁を行く蒸気機関車牽引の貨物列車=1973年(撮影:南正時)
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筆者が初めて、今でいう「只見線」を訪れたのは1969年のことだった。会津若松から会津川口まで、C11形蒸気機関車の牽く客貨混合列車に乗り、只見川に沿って旅をした。当時はまだ只見―大白川間が開業しておらず、会津若松から只見までの区間は「会津線」と呼ばれていた。

煙たなびく車窓から眺める沿線は、険しい山々に神秘的な只見川の流れ、それに並走する国道がほとんど未舗装で、秘境然とした印象があった。それ以来只見線に魅せられ、現在までほぼ毎年のように沿線をはじめ会津の各地を訪れている。

福島側は「会津線」だった

只見線の歴史は、1926年10月に「会津線」として福島県の会津若松―会津坂下間21.6kmが開業したのが始まりだ。もう一方の新潟県側は、1942年11月に上越線の小出から大白川までの26.6kmが「只見線」として開業した。

その後、会津線側は1956年に会津川口まで延伸され、翌1957年には田子倉ダム建設のため、電源開発株式会社が同駅から先の区間で専用鉄道による資材運搬輸送を開始。この鉄道を1963年に国鉄が譲り受け、会津川口―只見間27.6kmが延伸開業した。

現在の姿になったのは1971年8月で、福島・新潟県境にあたる只見―大白川間20.8kmの開業により全線が開通。これにより、会津若松―小出間の路線名を「只見線」とした。会津線の名称は、それまで同線の一部として通称「会津滝ノ原線」と呼ばれていた西若松―会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)間が引き継ぎ、その後第三セクターの会津鉄道となって現在に至っている。

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