現代日本人が「いつも時間に追われる」根本原因 文化人類学の視点で「あたりまえ」を考え直す

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しかし、一度、これらが確立されて定式化されると、私たちはそれが人為的なものであることをつい忘れてしまいます。しかし、時間とは本来的には区切りのない連続体であるように、人間の一生もまた、本来は区切りのない連続体だったのだと言えるでしょう。

このようにして、人生儀礼は本来、区切りのない連続体であり、カオスの状態にある人間の一生に節目をつけて、幼児から子ども、子どもから青年、青年から成人への移行を印づけます。ある状態から別の状態へ、ある地位から別の地位へ移行するという意味で、人生儀礼は、「通過儀礼」だと言えます。

狩猟採集民のほうが農耕民より幸せな人生を送っていた?

元来、時間というものは区切りのない連続体であると言いました。それを人間は自分たちの社会や文化に応じて、さまざまな儀礼的行為を実施することで、時間の体系を作り出し、カオスとしてある時間を秩序立てて、時間を経験できるようにします。当然、人為的にそれがなされるわけですから、文化が異なれば、時間の体系も異なってきます。

例えば、私がフィールドワークをした狩猟採集民プナンは、このような時間の経験に乏しく、時間というものをあまり意識していないようです。それはおそらく、狩猟採集という彼らの生業に深く関わっていると考えられます。

私たち現代の日本人は、学生も社会人も常に時間に追われています。しかし、狩猟採集民は時間に追われるということはまずありません。森の中に暮らし、目の前にいる動物を狩り、それを糧として生きているわけで、そこにあるのは相対的な時間だけです。私たちがふつう感じているような絶対的な時間の意識は希薄です。プナンの人たちは、私たちのように、1週間後の試験や、1カ月後の納品の締め切りなどを気にする必要などほとんどないのです。

しばしば勘違いされやすいのですが、人類は狩猟採集を行っている時期、常に食べ物の不足に怯え、あくせくと森に分け入り、獲物を探していたと思われているかもしれません。そして、農耕や牧畜が始まり、食べ物をストックするようになって、飢えに苦しむ心配はなくなったという「進化」的な歴史認識を持っているのではないでしょうか。

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