現代日本人が「いつも時間に追われる」根本原因 文化人類学の視点で「あたりまえ」を考え直す

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私たちはつい、時間そのものが普遍的で揺るぎのないものだと考えがちですが、揺るぎないと思っているのは時間ではなく、実は私たちが用いている時間の体系のほうなのです。時間の体系は、人間自身が生み出したものであるにもかかわらず、それは人間が操作することのできない、確固たるものとして経験されてしまうのです。

要するに、人間は混沌を混沌のまま経験することができないため、それを自ら制作した時間の体系と一致させるという、ある種の誤謬(ごびゅう)とも言える行為を通してしか、時間を経験できないのです。そして、本来、区切りのない連続体としてある混沌状態に区切りを入れて、人間が認識できるようにする行為こそが「儀礼」なのです。

時間の区切りを生み出す儀礼と言った時、人間の一生をつうじて、節目節目に行われる通過儀礼である「人生儀礼」を考えてみるとイメージしやすいはずです。人生儀礼とは、人の一生の中で、ある一定の時期に執り行われる儀礼を指しています。

人は胎児、幼児、子ども、青年、成人、未婚者、既婚者、壮年、中年、老人、死者というようなライフサイクルを送ります。そうしたカテゴリーの対応物は当然、自然の中にはありません。それらは個々の社会や文化の要請に応じて、人為的に作られたカテゴリーなのです。

例えば、かつて日本では12〜16歳で成人とみなされ、元服式が行われていましたが、現在では成人式は20歳で行われます(2022年4月からは成人年齢は18歳)。現在ではまだ子どもとされる時期に、かつてはいきなり大人になったのです。おそらくその頃には青年期というものはなかったと考えることができます。

ヨーロッパの中世には「子ども」という概念はなかった

フランスの中世・近世を研究した在野の歴史家フィリップ・アリエスは、『〈子供〉の誕生』という本の中で、ヨーロッパには中世まで、「子ども」という区分はなかったと言います。私たちがふつう、子どもとみなしているものは、中世ヨーロッパでは「小さな大人」であり、生育するとともに完全な大人になると考えられていました。

ヨーロッパで「子ども」という区分が生まれたのは、16世紀以降のことだったとアリエスは言います。人生のカテゴリーは、自然の中にあらかじめ存在するものではなく、人為的に作られた境界ですから、時代や地域によっては「子ども」や「青年」のような区分があったり、なかったりするわけです。

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