ヤングケアラーと名乗らない20代息子の複雑心中 母親が病に倒れたとき中1だった息子の現在
ヤングケアラーという言葉への違和感は、家族ケアは「やって当たり前」だからという理由だけではなく、実は結局は「どうしよう」につながる「申し訳なさ」とも関係があると思われる。
「やって当たり前」は「申し訳なさ」を打ち消す意味を持つ
実際にはインタビューでのけいたさんはときどき「大変」という単語を使っていたが、つねにあいまいに「大変さ」を打ち消しながらだった。「自分を『大変やったな』って思ったら、多分、自分のことを責めてしまうんで。昔から、『自分でやって当たり前』って思うしかない」ということは、「やって当たり前」自体が、実は「申し訳なさ」を打ち消す意味を持つということだ。
そして「『大変やったな』って、そのときは思うかもしれない」と、実のところは「大変さ」が「大変(じゃない)」と打ち消されつつ、背景に横たわっているようにも見える。
ひだのある仕方で、家族や自分への帰責を避けるために「やって当たり前」は導き出されている。「会話ができひんのは大変じゃないですけど、そこに対しての申し訳なさ」と、けいたさんではなく母親が「大変」でもあり、そこに対して「申し訳なさ」がある。
けいたさんの「申し訳なさ」は母が病になったことへの罪悪感であり、「どうしよう」という倒れたことを知った瞬間のショックにつながる。「やって当たり前」と家族の規範や習慣を語っているときにも実は、母親の存在の脆さというけいたさんが根本で抱えている世界像に触れているのだ。
けいたさんはこの箇所で珍しく「自分」を多用する。「自分を『大変やったな』って思ったら、多分、自分のことを責めてしまう」と語り、「自分でやって」当たり前と思ったら「自分も気が楽」「自分に活きてる」というように、自分が楽に落ち着く場所を、大変さを打ち消す揺れ動きのなかで見出している。それは無力感に襲われる脆い世界にあって、「自分」というものがケアを担うことで成立する繊細なバランスのなかで生じるのだ。
※注2「楽しかったなぁと思い家に帰るとお母さんの姿が無かった。話を聞くと突然、痙攣を起こして緊急で病院に行った事を知らされ、また近くに居てあげれなかったとK青年は更に自分を強く責めた。」〔けいたさんの手記〕
※注3 澁谷智子もこの点を論じている。澁谷智子『ヤングケアラーってなんだろう』ちくまプリマー新書、2022、24-26頁)
※注4 とはいえ、完全にヤングケアラーという言葉を否定するわけではなく、この言葉からの気づきもあったようだ。「その〔濱島淑惠さんが共同代表を務めるヤングケアラーの会(NPO法人)〕ふうせんの会の当事者の話、聞いてて、同じやなっていう感覚の話とかやっぱりあったんで、自分だけじゃないっていうか、そういうところに行ったのが初めてやったんで、いろんな話、聞けて、ああいうときにそうすることもできたんやっていう発見もありましたし。」
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