35歳でこの世を去った「芥川龍之介」時代の混迷 「心境小説分野」を確立した志賀直哉も解説

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本作発表の2年前、治安維持法が成立した。時代は、大正デモクラシーから、すでに少しずつ混迷の時を迎えていた。

芥川の遺書に書かれた「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という一節は、あとの世代にさまざまな解釈を残した。もちろん作家本人の心身の健康面の不安。あるいは今後、書きたいことが書けなくなるのではないかという表現の抑圧への不安。そして、第1次世界大戦を挟んで急速に工業化が進み、その歪みが飽和点に達しようとしていた日本社会全体に対する不安。

よく言われることだが、漱石の死(1916〈大正5〉年)が明治の終わりを示したように、芥川の死は、短い大正という時代の終焉を象徴した。

「志賀直哉」の功績

『城の崎にて』(新潮文庫)
志賀直哉 しが・なおや(1883〜1971)
心境小説と呼ばれる分野を確立                 
『城の崎にて』

私の暮らす兵庫県豊岡市は、十数年前の市町村合併で城崎温泉や神鍋高原を有する一大観光都市となった。その城崎温泉の端に、私が開所以来6年間、芸術監督を務めた城崎国際アートセンターがある。ここは世界中のアーティストが長期滞在して創作活動を行う場として人気を集めている。

城崎の町を歩くとそこかしこに、「温泉と文学の町」という掲示がある。しかしそれはひとえに志賀直哉の『城の崎にて』に拠るところが大きく、この一作によって城崎温泉の名前は全国区となった。かつてはすべての国語教科書に、この短編小説が収録されていた。

志賀直哉は1883年の生まれ。芥川龍之介よりは、およそひと周り年上になる。1910年、武者小路実篤らとともに雑誌『白樺』を創刊、のちに「白樺派」と呼ばれる文壇の一大勢力の代表者となった。

芥川が日本近代文学における物語の構造を確立したとするなら、志賀は近代日本語による「描写」の形態を確立した。国木田独歩の『武蔵野』からたった十数年で、この分野でも近代文学は飛躍的な成長を遂げた。

自分の部屋は二階で、隣のない、割に静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。その羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。

これは『城の崎にて』の冒頭部分の数行だ。大正期に書かれた志賀の短編小説はいずれも、今の読者が読んでも、その描写された風景が生き生きと私たちの脳内に再生される。「小説の神様」と呼ばれたこともあながち過剰な評価ではない。

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