『羅生門』の冒頭は、以下の通り。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剝げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
日本近代文学の黎明期の作品群と比べてもらえば、日本文学がこの十数年で、いかに長足の進化を遂げたかが分かるだろう。有り体に言えば「こなれた」文章、耳で聞いてもよく分かる文章となった。扱われる主題も多岐にわたり、日本の近代文学は、この大正時代に一つの爛熟の時を迎える。
芥川の初期の作品は「王朝物」だった
芥川自身、初期の作品は「王朝物」と呼ばれ、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多いが、やがてその関心は多方面に延び『蜘蛛の糸』(1918年)『杜子春』(1920年)『藪の中』『トロッコ』(いずれも1922年)と秀作を書き続ける。
1921年には初めて中国を訪問。しかし帰国後から心身の不調を訴えるようになり、作風にも変化が起こる。
『河童』は、その芥川の最晩年に書かれた。発表は1927年(昭和2年)。彼はこの年、35歳の短い生涯を自ら閉じる。
この作品には、河童の国に迷い込んだ思い出を語る狂人の言葉を借りて、当時の社会についてのさまざまな風刺がちりばめられている。例えば、主人公が河童の演奏会に出かける場面。
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