35歳でこの世を去った「芥川龍之介」時代の混迷 「心境小説分野」を確立した志賀直哉も解説

✎ 1 ✎ 2 ✎ 3
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

『羅生門』の冒頭は、以下の通り。

ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剝げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

日本近代文学の黎明期の作品群と比べてもらえば、日本文学がこの十数年で、いかに長足の進化を遂げたかが分かるだろう。有り体に言えば「こなれた」文章、耳で聞いてもよく分かる文章となった。扱われる主題も多岐にわたり、日本の近代文学は、この大正時代に一つの爛熟の時を迎える。

芥川の初期の作品は「王朝物」だった

芥川自身、初期の作品は「王朝物」と呼ばれ、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多いが、やがてその関心は多方面に延び『蜘蛛の糸』(1918年)『杜子春』(1920年)『藪の中』『トロッコ』(いずれも1922年)と秀作を書き続ける。

1921年には初めて中国を訪問。しかし帰国後から心身の不調を訴えるようになり、作風にも変化が起こる。

『河童』は、その芥川の最晩年に書かれた。発表は1927年(昭和2年)。彼はこの年、35歳の短い生涯を自ら閉じる。

僕はパンを嚙じりながら、ちょっと腕時計を覗いて見ました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落したことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童と云うものを見たのは実にこの時が始めてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画にある通りの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍らしそうに僕を見おろしていました。

この作品には、河童の国に迷い込んだ思い出を語る狂人の言葉を借りて、当時の社会についてのさまざまな風刺がちりばめられている。例えば、主人公が河童の演奏会に出かける場面。

クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを弾きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのやうに響渡ったのは「演奏禁止」と云う声です。僕はこの声にびっくりし、思わず後をふり返りました。声の主は紛れもない、一番後の席にいる身の丈抜群の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおお声に「演奏禁止」と怒鳴りました。
次ページ遺書に書かれた「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」の意味
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事