誤解が多すぎる「ヤングケアラー」の思わぬ実態 支援の第一歩は、多様な声に寄り添うこと
また、これまで拠り所としていた人の命が萎んでいくというのは、それなりに悲しい経験だったのだが、今度は自分が支える側にまわることで、私は頼られることの喜びを知った。不完全であるということは、他者に活躍の場をもたらすきっかけになるのだ。
たとえ能動的な存在ではなくても、人はただ存在しているだけで十分に社会的な役割を全うしているのだということに、私は祖父との思い出から気づくことができた。
私はそんな介護という経験を、意味あるものとして自分の人生に位置付けたかった。私が周囲に求めていたのは、「もったいない」という声ではなくて、自分で自分を認めるためのサポートだったのだ。
重要なのは「決めつけないこと」
ヤングケアラー支援の拡充に奔走する厚生労働省も、ヤングケアラーであることが「悪いこと」だと否定しているわけではない。先述の特設HPに掲載されている、成蹊大学文学部現代社会学科教授・澁谷智子氏へのインタビュー記事には、次のようなただし書きがなされている。
また、最近では、講演会やメディアでの特集などで、当事者・元当事者が自分の経験や想いを発信する機会が増えてきた。その語りからは、子ども・若者時代に家族のケアを担うことにはプラス・マイナス両方の影響があり、それらは分かちがたくつながっていることが窺える。
もちろん、ヤングケアラーは一様ではない。ケアに時間や体力を奪われた当事者は、「ケアさえなければ……」と悔しさをにじませるかもしれない。一方で、ケアに生き甲斐を感じている当事者の中には、自らが支援対象とされることに違和感を覚える人もいるだろう。
しかし、どんな当事者にとっても、ケア経験は「人生の一部」だ。そこから生まれた想いに社会が耳を傾けることで、結果的に当事者がヤングケアラーとしての経験に何らかの意味を見出すことができれば、それは当事者が未来を生きるうえでの基盤となりうるだろう。
ヤングケアラー支援の第一歩は、ケアによって失われたものを決めつけることではない。大切なのは、多様な当事者それぞれがケア経験をどうとらえているのかに耳を傾け、伴走しながら、ともに議論を進めていくことなのではないだろうか。
(執筆:小佐野有紀)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら