閉ざされた若者たちよ、"和僑"を目指せ 香港和僑会の荻野正明会長に聞く
「和僑」を名乗る一群の人々がいる。意識しているのは、むろん、華僑だ。華僑の凄まじさは、あの爆発的なエネルギー、そして、至る所に張り巡らされた「相互扶助」のネットワークである。華僑に学び、海外で起業する日本人たちの相互扶助の場として生まれた和僑会。香港和僑会と和僑総会の会長を兼務する荻野正明さんに聞いた。
リアルにつながる場が必要
――香港和僑会は世界12地域にある和僑会の本家本元的な存在ですね。荻野さんが香港に渡られたのはいつでしょう。
今から48年前。もう半世紀です。その頃の香港は中間層がない。上流と下層だけ。一生、下層で生きていくのが嫌なら、雲を突き抜けて上へ行くしかない。だから、華僑は起業の心構えが全然、違う。「一杯どう」と誘っても、乗ってこない。「オレには目標がある。なんでそんなカネを使わなければならないのか」と。成功するために、やれることは何でもやる。日本人にはとてもあんな迫力ないわ、と舌を巻いたものです。
――荻野さん自身も雲を突き抜けた。
最初は、中堅企業の香港駐在員だった。オフィスを構えたのは重慶大廈(ウォン・カーウァイ監督「恋する惑星」で有名になったチョンキン・マンション)の最上階。日本からメリヤス糸を輸入し、香港のニット・メーカーに売りさばく事業をゼロから作り上げました。4年後に独立し、セーターの日本向け輸出額では香港トップの会社になった。
「プラダ」との出会いは1986年です。当時の「プラダ」なんて、本店があるミラノ以外では誰も知らない時代。カミさんの「やりましょう」の一言で、日本を除く全アジアの代理店になった。契約書はA4紙が1枚きり。14年契約で豪州とハワイも任された。
1号店はペニンシュラホテルでした。16坪の店が年間30数億円売り上げ、いきなり6億円の利益が出た。「プラダ」の利益で高級食材の「シティスーパー」も展開できた。
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