そうだったのか!「イギリスと中国」決定的な違い 世界の国はだいたい2つの統治方に分かれる
両者を比べると、それらが一長一短であることはすぐにわかる。たとえば「世界統合型」の体制は、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」という言葉に象徴されるように、ひとたび帝国の支配を受け入れれば、自由と独立を手放した代償として、平和と安定を享受することができる。
一方「勢力均衡型」の体制は、たしかに自由と独立はもち続けることはできるが、その自由は時に戦争という手段で守られるものであるため、そこは日常的に戦争に明け暮れる世界である。そのため、どちらの体制が優れているとも一概には言えないようにみえるのだが、しかしここでもっとカメラを引いて、中国の歴史も同時に視野に収めると、その認識は少し変わってくる。
それというのも、西欧と中国の歴史を比べると、西欧社会は基本的に勢力均衡型として成り立っているのに対し、中国は基本的に単一の帝国から成る世界統合型として成り立っており、それは両者の文明の性格に根本的な違いとなって現われているからである。
中国史にみる統一世界の闇
西欧の場合、ローマ帝国の廃墟から再出発して生まれた新しいヨーロッパ世界は、イギリスやフランス、ドイツなどが力のバランスをとりながら共存するかたちの体制だった。それとは対照的に、中国の場合は紀元前221年に秦の始皇帝によって中国統一が成し遂げられて以来、単一の帝国に統治される世界が続いている。
しかしここで注目すべきは、その中国も始皇帝以前の時代は、いわゆる「戦国七雄」などのように、魏や楚などの有力諸国が並立する、勢力均衡型の世界に近いものだったということである。
ところが始皇帝の時代に中国が1つの世界に統合されて以後は、一時的にごくまれに、三国志時代のように短期間だけ、勢力均衡型の世界が例外的に出現することはあっても、基本的には単一帝国が支配する世界がメインとなり、かつての戦国七雄のような世界は、古い帝国が倒れて新しい帝国に代替わりするまでの繫ぎの期間に一時的に生まれるに過ぎなかった。その意味で始皇帝の中国統一は、いわば歴史上の特異点として、一種の巨大な不可逆変化だったのである。
そして何より重要だったのは、このときを機に社会の様相そのものが根本的に変貌してしまったことである。それ以前の春秋・戦国時代に勢力均衡型を保っていた中国では、中国社会のなかにも西欧と似た一種の潑剌さが感じられたのだが、始皇帝以後の中国からは、何だかそこに生きる人々のなかからそういうものが次第に希薄化していき、大きな権力の下で管理社会のなかの沈滞した精神のようなものに国全体が覆われていくようにみえるのである。
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