所在地からすれば駅名は根岸が妥当だったが、そうはならなかった。鶯谷という町名は存在せず、駅名の由来は江戸時代の名所である。「江戸のウグイスはなまっている」と皇族出身の寛永寺の住職が、京都からウグイスを運ばせて放ったという言い伝えから、鶯谷と呼ばれるようになった。1894年から1902年に没するまで根岸に住んだ正岡子規の俳句「雀より鶯多き根岸哉」の句碑が、台東区立根岸小学校の前にあり、土地柄を表している。
行楽客を当て込んで駅名を付ける例は、明治の末頃から各地で開業した電気鉄道の駅によく見られる。また、徳川将軍家の菩提寺である東叡山寛永寺への配慮が、この時期でも江戸時代を知る世代が残っていたがゆえ、強かったのではあるまいか。そうした意識が駅名に表れたのかもしれない。
江戸時代の寛永寺は、現在の上野恩賜公園のほぼすべてを寺域とし、威勢をふるっていたが、幕末の上野戦争で焼き払われ、現在は鶯谷駅にほど近い場所に小さく再建された姿で残る。太平洋戦争の空襲でも被害を受けたが、鶯谷駅南口から歩いて3、4分ほどのところにある「厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門」などいくつか貴重な建物は残り、国の重要文化財に指定されている。この門は公道からでも見ることができ、散歩コースのよい目印だ。
駅の周囲に広がる住宅地
寛永寺の北側には、谷中霊園との間を走る言問通りに沿って閑静な街並みがある。ここが上野桜木で、武蔵野台地の上の高級住宅街として知られる。最寄りは鶯谷駅北口で、歩いて10分ほど。やはり寛永寺の寺域であった。下町風俗資料館付設展示場(旧吉田屋酒店)など、明治期からの建物もいくつかある。この町の地下を京成上野―日暮里間の京成本線が通っており、1953年まで寛永寺坂駅が存在した。
隣接する谷根千(谷中、根津、千駄木)が近年、人気の町となっているが、その“余波”のようなものが上野桜木にも及んでおり、雰囲気のよいカフェやギャラリーなどがここにも増えてきた。今は、穴場の散策路と言えるだろう。特別、地域振興を図らねばならない理由はないし、谷根千のように休日ごとに人でごったがえすようになるのもいかがなものかと思う。
山手線が走るラインが武蔵野台地の東端に当たり、線路をまたぐ跨線橋も片側だけが下る。崖の下一帯が根岸だ。駅周辺はラブホテル街。元は上京してくる客を相手にした駅前旅館街だったそうだ。電車からよく見えるものだから、鶯谷のイメージの1つになっていることは間違いないが、それだけで語るのももったいない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら