収容所に送った国民は何と1800万人。己の権力維持のために、あらゆる権謀術数を用いたスターリン。そんな独裁者がなぜ今も人気なのか?
スターリンの本名はヨシフ・ジュガシヴィリといい、通常は1879年生まれとされているが、生地のグルジア(ジョージア)の教会に保管された記録によれば、実際には1878年に生まれた。
スターリンという偽名はロシア語で鋼鉄の人といった意味を持つが、革命家として地下活動をしていた時期に、おそらくは不屈の革命家になることを志して使い始めたものである。
1920年代の半ばまで、スターリンはソ連共産党内の政策論争にほとんど関与せず、もっぱら党組織の管理運営に関わっていたので、右派にも左派にも属さない中庸の人と目されていた。しかし20年代末に農業集団化が始まると、この評価は一変した。
右派の指導者が主張していた農民との協調による経済発展策を退け、急進的傾向を持つ党員を使って農民をコルホーズ(集団農場)に組織し、そこから大量の穀物を調達する政策を推し進めた。
農民から穀物を収奪する集団化は、当然ながら激しい抵抗を招いたが、逡巡しなかった。資料によれば、30年から32年までの間だけで数十万人の農民が銃殺されたり収容所に送られたりした。そればかりか数百万人の農民とその家族が農村から追放された。
工業化を急いだ20年代末
この政策転換が生み出した犠牲者はそれだけではなかった。農民の反抗とそれに対する当局の弾圧、さらには天候不順が重なって、32年から翌年までにウクライナなど穀物生産地域で500万人から700万人の農民が餓死した。さらに数十万の人々が収容所や牢獄に送られた。最終的に収容所や牢獄に幽閉されたのは、29年からスターリンが死ぬ53年までの間に1800万人に上った。
なぜ20年代末にスターリンはこうした急激な政策転換を行ったのか。彼の考えは推測するしかないが、その言動からみて2つの理由が考えられる。
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