中韓の「反日」に、どう向き合うか? 第2回 ナショナリズムは「3つのベクトル」で考えよう
きっと「こいつがやったんじゃない。こいつの国に昔、こういうことがあったんだろうけど、こいつがやったんじゃない」というふうな了解点を、子どもなりに作るんだと思います。それが大事だと思いますね。それは耐えるべきもので、逃げてはいけない経験だったんですね。
その友人の考えこそが、B層の、お互いの相互理解を目指すレベルです。そういう付き合いが大事だと思うんです。
だから逆に言えば、こういった個々のレベルで、ベクトルの真ん中のB層がもっといろんな付き合いをすることが大切だと思います。
中国の歴史博物館で謝罪しなかった理由
『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』にも書いたのですが、私は中国の平頂山の記念館に行ったことがあります。日本の労働組合関係の人も団体で来ていて、説明員から日本軍の大虐殺行為の話を聞かされているうちに興奮して、「日本の軍国主義は許さないぞ」などと言ってるんです。
それを見ていた僕の説明員に「保阪さん、どう思いますか?」と尋ねられたので、こう答えました。
「この行為を人間として悲しいとは思う。けれど、僕がこの行為をやったわけではない。だから謝らない。事件当時、まだ生まれてもいない僕に行為の責任はいっさいないし、僕は日本人を代表しているわけでもないから、謝るのも妙なことです。
ただ、2度とこうしたことはしない。もし日本がこんなことをまたやるような国になりそうだったら、命を懸けても抵抗する。止められるかどうかは別にして、とにかく、努力することだけは約束します」
そうしたら議論になりました。僕は招待で行ったんです。招待で行くということは、彼らからすれば、まあ、謝るまではいかなくても、それに近い感想があってしかるべきだと思ったんでしょう。
でも、僕は「決して謝らない。謝るということは、かえって失礼にあたる」と言いました。
で、中国の人は、初めは怒っていました。「保阪さん、私は中国人ですよ。中国人を前にして言う言葉ですか」っていうわけです。
そこで、「え! そうしたら、僕は中国人のあなたといるとき、日本人としてずっとあなたに謝らなきゃいけないんですか?」と言い返しました。中国人の説明員は「少なくとも中国人の前に出たら、そうでしょう」というようなこと言います。
そういう議論はもう10年ぐらい前に行ったときにもあって、それからもよく行きますけども、いまだに変わりません。
私はそこで、私たちが本当に取るべき態度は何なんだろうと考えました。
労働組合の人は、「日本の軍国主義は許さないぞ」ってやってました。あるいはどこかの日本人の皆さんは、一所懸命泣いていました。確かに僕も少し涙が出てきました。けれど、それと歴史の中でどういうふうに付き合っていくかというのは、別だと思うんです。
僕の考え方がいいか悪いかは、人によって、まったく受け取り方は違います。僕のやり方が通用するかどうかというのも、これもまた難しい。でも僕は、謝るか、謝らないかといった問題にすること自体、おかしいのではと思います。
たとえばアメリカの記者から、広島へ連れて行ってくれませんかと言われて、広島の原爆ドームへ行ったとき。僕が「あなた、これを見て、どう思う」って聞いたら、彼は「原爆ってすごいよね。こんなだったんだね」と答えました。
僕がそのとき、アメリカ人に「あんた、謝れ」って言わないですよね。「あなたの国が投下したんだから謝れ」って言ったら、彼らは何と言うでしょう。「え! なんで僕が謝るの? そもそもなんで、あの戦争が始まったのかという話になっちゃうよ」っていうことになる。
つまり、謝るか謝らないかという問題ではない、ということですね。歴史の中のそういった事実を、自分の中でどうやって自立して考えるかということだと思うんです。そういったことが、ナショナリズムの根幹にあるんだと思う。
私の考え方は、ちょっと右翼的ではないかと思われるかもしれません。でも、私は右翼じゃありません。確かに保守的ではあるけど、歴史修正主義者でも右翼でもありません。
まあ、そういったことを含めて、私は『日中韓を振り回すナショナリズムの正体』を書きました。
(第3回へ続く)
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