どこが復興五輪?「被災者は今も放置」残酷な現実 コロナだけでなく原子力緊急事態宣言も発令中

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庄司さん一家は戸惑った。家賃が自己負担になる。1人当たり月10万円だった東電の賠償金は2012年に終わっている。「南相馬市に戻ろうか」と子ども4人に言ったが、4人とも「友だちと離れたくない」と拒んだ。事故以来、各地を転々とし、友だちとは離れてばかりだった。親としても、さすがにもう転校はさせられない。

それに、故郷は戻れる状態ではなかった。事故から2年後の春、自宅の雨どい付近で放射線量を測ると、毎時11.49マイクロシーベルト。事故前の空間線量の230倍もあった。あのときは驚きのあまり、「もう帰って来れない」と思ったという。

月9万円の家賃も払えない。郷里の自宅にも戻れない。50歳を超えていた庄司さんにとって、新たな職探しは楽ではなかった。

結局、長岡市では安定した就職先が見つからず、1人で南相馬市に戻り、除染作業員として働くことを決めた。子どもたちのおむつ替えから炊事、洗濯などをずっと担ってきた庄司さんが、初めて子どもたちと離れて暮らすことになったのだ。

避難先で子どもが自死……

庄司さんには、忘れようにも決して忘れられない出来事がある。

2017年6月。除染作業の初出勤を控えていた。家族と別居する前日の夜、庄司さんは長岡市の避難先住宅で4人の子どもたちに夕ご飯を食べさせ、食後は他愛もない雑談でくつろいでいた。長女、次女、次男が自分の部屋に戻っていく。

庄司さんも自分の部屋に戻り、座椅子に座った。すると、障子が開き、中学3年生だった長男の黎央(れお)さんが「お父さん、もう(南相馬に)帰っちゃうの」と言う。いつもは言わない言葉だよな、変だな、と思った。少し弱々しい。そういえば、この1週間、ずっと口数が少なかった。

「うん、来週から仕事だからね」

「いつ帰ってくるの?」

「まだわかんない」

いつ帰ってこられるか、実際に仕事に就いてみないとわからなかった。

その4日後。南相馬での初出勤の日、まだ眠っていた早朝に携帯電話が鳴った。長女の声で「黎央が、黎央が」。それだけ言って電話は切れた。次は妻からだった。「黎央、死んじゃってる」。

長岡に戻ると、医師も警察官も家から引き揚げた後だった。庄司さんはその日、眠れずに過ごしたという。通夜の席では、女子の同級生3人が「お父さんが大好きだって言ってました」「一緒にいられなくなって寂しいって」と言っていたが、遺書はなく、本当の理由はわからない。庄司さんは「なぜ」という自問を繰り返すしかなかった。

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