創設立役者なのに「台湾」がWHO参加できない事情 総会オブザーバー参加でさえ認められない状況
台湾の友人に会うときには、必ず羊羹を手土産に持っていく。虎屋の羊羹「空の旅」だ。
「機は高度を高めて、白雲の波の上をとぶ。折から夕陽が白雲に映えて、ゑも云えぬ美しさだ」
紅地に点々とした白小豆は、夕焼け空に浮かぶ白い雲。羊羹「空の旅」は、虎屋15代当主の黒川武雄が、ジュネーブの世界保健機関(WHO)総会に向かう機内で見た光景に由来するという。その包み込むような甘さも、もしかすると、敗戦国の日本が国際社会に迎えられたという黒川の現地での経験から着想を得ているのかもしれない。
日本がWHOに加盟した経緯
WHOは国際社会へのゲートウェイである。それは、日本にとってもそうだったし、台湾にとってもそうであり、象徴的な意味がある。
戦後日本は、国際社会の一員として復帰すべく、サンフランシスコ平和条約署名(1951年9月)と国連加盟申請(1952年6月)の前に、WHOに加盟している(1951年5月)。また、台湾も、国際社会との紐帯を強化すべく、WHO総会へのオブザーバー参加を模索している。
WHO総会は、年に1度、毎年5月に開催される。そこには世界中の加盟国194カ国の代表団が集い、感染症危機管理を初めとする世界の保健課題について活発に議論する。
1951年5月、虎屋15代当主で厚生大臣でもあった黒川武雄は、日本の国際社会復帰を少しでも早く進めるべく、東龍太郎厚生省医務局長(後に東京都知事)らと共に、政府代表団としてジュネーブに飛んだ。
それに先立ち、同年1月、GHQは日本政府のWHO加盟申請を許可。日本政府がWHO加盟申請を行ったところ、「日本の加盟申請は議題にのせることにした。それで今度の総会で可決になった場合には、日本政府の憲章の正式受諾書を国連事務総長に寄託して欲しい。そのあとで日本から出ているオブザーバーは正式の代表となるであろう」とWHO事務局長が返答してきたのだという。
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