不登校だった経験のある吉藤オリィ氏がロボットで救う「孤独」 「孤独は消せる」人類の課題に挑み続ける理由

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なぜ人の体は1つしかないのか――。もし事故や病気で入院すれば、さまざまな機会を損失してしまう。友達といろいろな思い出もつくることができない。孤独感にもさいなまれる。そんなときインターネットを使い、遠隔で自分という存在を伝達し、自分のもう1つの体、“分身ロボット”を使って入院しながら学校の授業を受けたり、カフェで働いたりできないか。そうすれば、体が不自由でも、本格化する高齢化社会で長寿が進み、寝たきりになってしまっても、その後の人生を自分らしく生きることができる。そうした問題意識のもと分身ロボット「OriHime」を開発し、社会課題の解決に取り組んでいるのがオリィ研究所代表の吉藤健太朗氏こと、吉藤オリィさんだ。

3年間の引きこもりで、逆にさまざまなことに挑戦できた

吉藤オリィさんは小学5年~中学2年まで不登校で引きこもりを経験している。

「当時は引きこもりの明確な対応策もなく、学校の先生も無理やりパジャマのままの私を担いで、車で学校に運ぶような試行錯誤の時代でした。接し方も厳しかったり、優しかったり。その中でよかったことは、周囲が教室で授業を受けさせることを諦めて、特別な環境をつくってくれたことです。私だけの教室をつくって、友達と会わなくてもいい環境をつくってくれた。しかも、図書館の本のしおりを作るという役割まで与えてもらった。その当時、一生懸命折り紙を折っていたことは、私のものづくりの原点につながっています」

人と同じことをすることが大嫌いな人間でもあった。学校での集団行動が病的なまでにできない。制服を着ることさえつらかった。そんなオリィさんを心配した両親は、不登校の間に、逆にさまざまなことに挑戦させたそうだ。ミニバスケット、ピアノ、少林寺拳法、ボーイスカウト、体操教室から無人島でのキャンプまで。その試行錯誤の中で、唯一はまったのがロボットの自由研究だった。

「不登校の頃は、絵を描くか折り紙ばかり折っていたのですが、折り紙が折れるならロボットも作れるだろうと、中学1年の時に親が虫型ロボットを作る大会に勝手に応募してしまったのです。プログラミングに触れたのは、その時が初めてだったのですが、幸運にも優勝することができました。おそらく向いていたんでしょうね。翌年には自分の意思で同じ全国大会に出場し、結果は準優勝でした。この時人生で初めて、努力が報われたうれしさと優勝できなかった悔しさという感情の高ぶりを覚えました。そしてそこで出会ったのが、同時開催していたロボットフェスに参加されていたロボット開発者の久保田憲司先生だったのです。先生の作られていたロボットに非常に感銘を受けました」

「先生の弟子になりたい」その一心で、不登校を卒業

どうしても久保田先生の弟子になりたい――。そう思ったオリィさんは、中学3年の時に不登校を卒業し、猛勉強の末“師匠”の久保田先生がいる奈良県立王寺工業高校に入学する。

「入学式翌日に校門で先生を待ち構え、『弟子になりにきました』と伝えました。それからの高校生活は、丸一日ものづくりし続けるような生活でした。始発で登校し、校門が開くのを待ち構えて、開いた瞬間に校内の工場(こうば)に直行。授業が始まるまで旋盤を回したり、ものづくりをする。放課後も夜まで工場にこもり、終電で帰る日々。家に通っているような状態でしたね。歴代の高校生の中でもいちばん高校にいたんじゃないでしょうか(笑)。ものづくりを自由にできる環境は心地よく、そのとき、師匠のもとで発明するに至ったのが、傾かない電動車イスの新機構でした」

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