三宅:その後、小売りに進出してSPAなり、眼鏡なりと、どうやって今のビジネスモデルに進化してきたのでしょうか。
田中:1990年代の円高で、国内の縫製屋さんで作るのでは、コストが見合わなくなってきました。そこで中国を中心とした海外で生産をするようになったのです。そして韓国の工場に出張で行ったとき、南大門という繁華街で、たまたま眼鏡を1本3000円程度で売っているのを見てびっくりしたのです。日本で3万円はする眼鏡が、韓国では3000円。内外価格差を考慮しても差がありすぎる。これはどういうことだと日本に帰って調べたら、眼鏡という商品は中間マージンがたくさん発生していて、粗利も高いということがわかりました。
一方、ロードサイドにある大手チェーンや、私の地元の群馬県の眼鏡屋さんをいろいろ見てみると、いつ行ってもお店はガラガラです。これじゃ経営はかなり厳しいに違いないと思って『会社四季報』を見てみたら、当時ナンバーワンだった眼鏡屋の売り上げが700億強で経常利益が130億円と、とてつもない好業績なわけですよ。「えっ、そうだったのか。これならもっと安くできるはずだ」とひらめいて、眼鏡のSPAを始めたのが2001年の4月です。
三宅:そこでも戦略的にちゃんと四季報も見た(笑)。
田中:そうです。その頃はそのくらいの知識がありましたからね(笑)。
売り上げ半減から、一気に攻めへ
三宅:韓国で眼鏡と出合ったのは、いつ頃でしたか。
田中:2000年、私が37歳のときです。そのときは雑貨の売り上げが10億円、経常利益が1億5000万円くらいで、安定していた頃です。無借金経営でしたし、群馬では1億いくらの利益を出していれば、まあまあよくやっているほうです。でもずっとこのままうまくいくはずがないから、調子のいいうちに何かほかのことにチャレンジしなきゃいけないという危機感があったのですね。
それで「今なら失敗しても雑貨が何とかやっているから、いつでも撤退できるだろう」と思い、雑貨をスタッフに任せてアイウエア事業を始めたのです。
三宅:最初、眼鏡はどこで作り始めたのですか。
田中:韓国です。
三宅:デザインは自分たちで?
田中:初めは自分たちでデザインするところまで行かず、韓国のメガネフレームを売っている市場から買い付けていました。
三宅:最初から売れましたか。
田中:2001年4月に福岡の天神に店をオープンしたのですが、一本5000円という破格の安さが話題になり、口コミですごく売れました。大して宣伝もしていないのに、つねにお店がお客様でいっぱいの状態になったのです。ところが4月に始めて3カ月後には、周りに20軒ぐらい同じような店ができていました。福岡と韓国は近いから、私と同じように買い付けてきて、同じように売り始めたのです。
三宅:ビジネスモデルをまねされたのですね。
田中:売り上げが半減しました。しかもオープンから半年後の2001年9月に、出店先のデベロッパーだったマイカルが倒産してしまったのです。すると売掛金の2000万円が入ってこない。大変ですよ。
「今なら、撤退してもケガは小さくて済む。さて、どうしたものか」と考えながら、そのライバルの20軒を見て回ったら、どの店も私が当初描いていたような、眼鏡をファッションのように売るスタイルとはかけ離れていることに気づいたのです。ただ眼鏡を安く売っているというだけで、売っている人もおじいさんのような人だったりして、ちょっとイメージと違う。
ここで本気で勝負をすれば勝ち抜けるんじゃないかと思い、それから雑貨の利益を眼鏡のほうに注ぎ込みました。大変でしたが、いきなり立て続けに4店舗出し、5店舗目からはオリジナル商品も作り始めました。すると売り上げがまた上がってきました。そしてほかの店はだんだん撤退し始めたのです。
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