「カウンタック」誕生の裏にいた若き天才の存在 フェルッチョが絶大な信頼を寄せた人物とは

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「彼はエンジニアリングに関する知識と理解力も素晴らしかった。だから、2人で話し始めると、なかなか終わらなかった。図面を前に、あるときは林の中を散歩しながら、そしてあるときは食事をしながら2人で考えをまとめたのです。カウンタックのスタイリングはユニークですが、そこに何1つギミックはありません。すべてが求められる機能を実現するための必然から生まれたのです」

ランボルギーニのアイコンでもある「シザーズドア」(写真:ランボルギーニ)

カウンタックの特徴でもあるユニークなシザーズドアは、限りなく前方に位置するシートポジションと、20度余りという恐ろしく寝たフロントウィンドウを実現するためのソリューションである。

そうでもしない限り“開く”ドアのヒンジを付けることはできなかったし、彼らはガルウィングのように(ヒンジをルーフに置き)重心が高くなるような手法は採用したくなかったと考えたのだ。

カウンタック発売後のストーリー

カウンタックの生産モデルは、LP500のコンセプトモデルが発表された2年後の1973年に「LP400」として完成した。しかし、顧客の手元に届くのはさらに1年以上を要している。ミウラとは違って、生産開始までに十分な時間があったように見えるが、実はこの3年余りの間には、1冊の本が書けるくらいたくさんの出来事があった。

実際、LP500コンセプトモデルとLP400市販モデルの中身は、まったくの別物である。そして、このカウンタックの完成とときを同じくして、“生みの親”であるスタンツァーニもランボルギーニを去っており、ここにもまた別の物語がある。

「カウンタック」の最終モデルとなった「25th Anniversary」(写真:ランボルギーニ)

カウンタックは、1989年まで17年間にわたり生産が続いた。そして、そのDNAは現行モデルである「アヴェンタドール」にも受け継がれている。ランボルギーニの経営状況が悪化し、裁判所管理下にあったときでも、絶えることなくカウンタックが作り続けられていたことは、とても興味深いではないか。

実は、それが可能となったのも、スタンツァーニがカウンタック開発時に蒔いたある重要な“種”のおかげであった。そんなことも追って書いてみたい(そのヒントはシャーシにある)。また、今回は触れなかったが、この“カウンタック”というモデル名に関しても面白いエピソードがたくさんある。その真実もお伝えしたいところだ。

越湖 信一 PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表

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えっこ しんいち / Shinichi Ekko

イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete Guide』『Giorgetto Giugiaro 世紀のカーデザイナー』『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。

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