「財政は目的でなく手段」の忘却が招く経済危機 プラグマティズムで「均衡ドグマ」から脱却を

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

下村は、終戦後のインフレ処理の経験から、インフレは制御可能だという教訓を得た。また、下村は、物価は「生産能力と需要との相互関係」によって決まるのであり、生産能力を増強するための積極財政は、かえってインフレを抑止すると考えていた。これが、拙稿の要旨である。

要するに、筆者が下村の積極財政の部分のみを強調した理由は、「インフレは制御不可能」という議論を批判するという文脈ゆえである。その他の部分に言及しなかったのは、文脈上必要ではなかったし、紙幅に限度があったからにすぎない。

均衡財政論者でも積極財政論者でもない

だが、より重要なのは、次の論点である。

下村は、「国際均衡」と「国内均衡」の両立を目指すべきだと考え、これを「節度」と呼んでいた。これについて、宮川教授は、下村の言う「節度」に「財政節度」なるものを含め、「財政節度とは均衡財政を目指すことにほかならない」と断言する。

しかし、果たしてそう言えるだろうか。下村の「節度」の概念を再検討してみよう。

「国際均衡」とは国際収支の均衡であり、「国内均衡」とは需要と供給の均衡である。しかし、この2つの均衡は、自動的に同時達成されるわけではない。

そこで、下村は、それぞれの不均衡ごとに必要となる政策を、以下の4パターンに整理した。

輸入超過と国内インフレ(需要超過)
金融を引き締めるか、緊縮財政を断行する
輸入超過と国内デフレ(供給超過)
経済の効率化を進めて雇用水準を上げつつ、為替レートを切り下げる
輸出超過と国内デフレ(供給超過)
投資や財政支出を拡大する
輸出超過と国内インフレ(需要超過)
為替レートを切り上げる

ここから明らかなように、下村は、国際均衡と国内均衡の状況に応じて、経済政策をプラグマティックに変えるべきだと論じていた。

例えば「①輸入超過と国内インフレ」では、均衡財政は、確かに「節度」となろう。

しかし、「③輸出超過と国内デフレ」では、均衡財政を目指すことは、国際不均衡(輸出超過)と国内不均衡(デフレ)をより悪化させるので、かえって「節度」を失うことになる。この場合は、国際均衡と国内均衡を達成する「節度」とは、財政支出の拡大なのだ。ちなみに、1990年代後半から今日まで、日本は、ほぼ一貫して、この「③輸出超過と国内デフレ」の状態にあった。

次ページ強靭なプラグマティズムこそ下村の真骨頂だった
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事