飲食店を「倒産」させるコロナより深刻な問題 NY名店オーナーが20年来の店をたたむ理由
その一方で、20年前から保険を担当してくれているケンにも電話した。ケンは、辛抱強く、専門的ながらも、「力になりたいのはやまやまなんですが」といった裁量権のなさを匂わせる声で、コロナ関連の休業に保険が使える可能性は低い、と言った。
近隣の水害や火災が原因で休業を命じられたのであれば、もちろん保険請求手続きは行うが、今回のケースだと保険金が下りるのかどうかも怪しいという。その日の午後、ご丁寧にも労働者災害補償保険事務所からメールが届いた。次回保険料は6日後に銀行から自動で引き落とされる、という通知だった。
残高がどうなるか知っていた私は、もう笑うしかなかった。「ええい、どうにでもなれ」。勢い込んでケンに電話してこの話をすると、労災補償保険の引き落としを延期するようケンが窓口になっている事務所を説得してくれた。
そのころには、3週間分ものアドレナリンが体から流れ出ていったような気分だった。火元をすべてチェックし、ゴミ出しも終えた。私は強大な流れに逆らって泳ぐのはやめにした。流れに身を任せることにしたのだ。
大学院を修了してからの20年間を、この場所で過ごしてきた。結婚、出産、離婚、そして再婚があり、その間には葬儀や初デートもいくつか経験した。店の壁やスイッチ、蛇口は自分の体のように知り尽くしている。アシュリーと私が戸締まりを終えて歩いて帰宅するころには、外は暗くなっていた。
廃墟で思い描いた夢
プルーンはマンハッタンのイーストビレッジにある。熱心なファンと、固いきずなで結ばれた店員のいる、狭くても活気あるビストロだ。私が店を開いたのは1999年。わずか14卓のテーブルが狭い店内にひしめきあい、ワインの入ったグラスを置いて料理を取ったら隣の席の分だった、ということも珍しくない。こうしたことがきっかけで始まる友達づきあいも少なくなかった。
プルーンを開店しようとしていた20年前、私はどんな店を思い描いていたのだろう。あの頃の私は昼間にケータリングの仕事をしながら、夜は毎晩徹夜でメニューを書いたり、料理の盛り付けデザインを描いたり、後にプルーンとなる場所で壁を磨いたり、バターイエローの内装を施したりと、一日中働きづめだった。そこは南京錠のかかった荒れ放題のスペースだった。フランス料理のビストロが経営に行き詰まって撤退したまま放置されていたのだ。バーカウンターの後ろでは、ベトベトしたペルノーのボトルの上をゴキブリがはい回り、床はネズミの糞に覆われていた。
私はたくし上げたTシャツで口元を覆い、あえぐように息をしていた。しかし、その瞬間ですら、はっきりと自分の店の様子をイメージすることができた。一風変わった小粋なスペースで、自分が夜ごとに催す居心地の良いディナーパーティーの光景だ。