堀江貴文「リスクに過剰反応する人が失うもの」 人生という「川の流れ方」と「滝の落ち方」
僕は決して無茶振りはしていないし、へんな制約もつけない。それに、サロン内にはサポートしてくれる優秀な人材も揃っている。それでも動けないということは、リスクに食い止められる程度にしか「やりたい」と思えていないのかもしれない。
もしそうなのだとしたら、それはそもそもやる必要がないことなのだろう。「本当にやりたいこと」を見つけた人というのは、多少のリスクがあろうと、指先で少しでも押したら、勝手に突っ走り始めるものだ。
あるいは、心のなかで実際以上に大きな「滝(=リスク)」を勝手に作り出して、逃げ腰になっているのかもしれない。
リスクのない人生を送ることは不可能
人は、行く先に大きな「滝」が視界に入ってくると、おかしな行動を取ってしまうものである。半狂乱のような状態になったり、普段なら引っかからないような詐欺にダマされたり、他人を陥れるようなウソをついたりしてしまう。
かく言う僕も、時価総額1兆円に迫る会社の経営者から、長野刑務所の服役囚になったという意味では、かなり巨大な「滝」から落っこちたことになる。
しかし僕は、あの「滝下り」を前にしても、まったくパニックにならなかった。公判の最中にも「あー、もうすぐ滝に落ちるっぽいなあ」と呑気なものだったし、判決が出たあとも「おーっ、落ちてる落ちてる」「うひゃー、こりゃすごいな」くらいのものだった。
なぜか?そんな「滝」は、「ウサギの角、カメの毛」、考えても仕方がないことだとわかっているからだ。
「滝」のない人生を送ることは不可能である。「滝」にぶつかるかどうかは運任せの領域であり、こちらではコントロールできない。
僕たちは大きな「川」の流れの中にいるのだから、ひとたび目の前に「滝」が現れたら、どんなにもがいてもムダだ。
むしろ、手足をジタバタさせていると、落っこちたときに大ケガをしかねない。身体の力を抜いて、流されるがままにいくのがベストだ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら