開業50年「湘南モノレール」なぜ住宅街を爆走? 「懸垂式」アピール狙い大阪万博の年に開通

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日本エアウェイは、片瀬西浜と江の島島内を結ぶ、およそ800mのモノレール建設計画を立てたが、当時の神奈川県知事と島民の猛反対に遭って挫折した。そこで次に注目したのが、当時、京浜急行が運営していた大船―片瀬間を結ぶ有料道路「京浜急行自動車専用道路」(以下、京浜急行道路)だった。この道路上にモノレールを通すのであれば、用地買収なども比較的容易に進むだろうと目算を立てたのだ。

その後の京浜急行との交渉の結果、京浜急行道路の利用のほか、「鉄道運営の中心たる運転関係、鉄道営業実務等の中核」(設営の記録)として京浜急行が湘南モノレール設立に参加する約束まで取り付けることに成功した。

これらがスムーズに実現したのは、当時京浜急行の社長に就任した佐藤晴雄氏が「革新的な気持ちで乗り込んできた当初の時期であった」(設営の記録)ことが大きいと村岡氏は記している。

佐藤氏は1964年5月の社長就任後、都営地下鉄との相互乗り入れなどに手腕を発揮した人物であり、「佐藤氏来任前の京浜急行だったら、あるいはこの事業への参加はもちろん自動車道を当社に貸与することさえ肯(がえ)んじなかったかも知れない」(設営の記録)という。

こうして、約7kmの路線計画のうち6kmが京浜急行道路上を通過する計画が立てられた。そして、授権資本10億円の60%を三菱3社と京浜急行が持ち、役員も三菱3社、京浜急行、日本エアウェイ開発から大部分を選出し、1966年4月11日に湘南モノレール株式会社が設立された。

「道路上」めぐる行政の壁

しかし、過去に実例がほとんどない懸垂式モノレールという未知なるものを建設するのは簡単ではなく、乗り越えなければならない大きな山がいくつもあった。

最初の難題は、鉄道敷設免許の申請における運輸省自動車局と建設省道路局(いずれも当時)の縦割り行政の壁だった。

工事中の風景。富士見町駅付近から小袋谷跨線橋方面を望む(写真:湘南モノレール)

当初、京浜急行道路は公道とは異なり、建設省は管轄外と思われていたが、「単なる私道ではなく京浜急行が一般自動車道の許可を受けており、運輸省自動車局と建設省道路局との共管」(設営の記録)になっていることが明らかになった。

仮に京浜急行道路が公道であるとなれば、道路上への鉄道の敷設を原則禁じる地方鉄道法(当時)の文言が問題になる。それならば、「軌道は道路に(中略)敷設すべし」とする軌道法による敷設も考えられたが、運輸省は建設省との共管を嫌ってこの法律によるモノレールの免許を認めようとしなかったという。

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