日本の有機農業がいま一つ広がらない構造要因 世界では売り上げ倍増、国の目標達成は遠い
毎週日曜になると、埼玉県比企郡ときがわ町の駐車場に有機農家の直売所「ときのこや」が出現する。ときがわ町、小川町、鳩山町の農家が共同で運営し、現在のメンバーは18人。「今年で10年になります。収入は右肩上がり」と、4代目の代表を務める酒井英夫さん(60歳)は威勢がいい。
「最初は5、6軒で始めたが、売り上げは全体で3000円、各農家で500円といった具合でした。そんな状態だと普通、1年ももたないですよね。しかし、作物の育て方などの情報交換もできる。普段1人で作業しているので、就農時期が一緒の仲間が集える場は貴重です。1周年にはお祭りをやり、だんだん人が来るようになった。全体で月1万円の売り上げが翌年には2万になり、今は1日10万円、月で30万〜40万円くらいです」
ときがわ町の隣の小川町では、有機農業の草分け、金子美登さん(71歳)が49年来の実践を積み重ねる。全国でヘリコプターによる農薬の空中散布が盛んだったころには、たった1人で反対の声を上げ、変人、厄介者扱いされたこともあった。しかし、金子さんのもとに集まってきた若者たちとともに取り組みを続け、約20年前には化学肥料・農薬ゼロによる在来種の大豆作りが集落全体に広がった。
有機農業によるコメ、麦、大豆を地元の企業が買って酒や豆腐を作り、特産品となった。金子さんの農場のある下里地区は、2010年に農林水産祭のむらづくり部門で天皇杯を受賞した。
巣立った研修生は150人以上
金子さんのもとから巣立った研修生は少なくとも150人に上り、全国各地で農業を続ける。小川町周辺に根付いた人たちの中には、孫弟子も含め、影響を受けた人たちが多い。
2011年にときがわ町で新規就農した中澤健一さん(47歳)は、国際環境NGOの職員だったが、「自分の暮らしから変えていきたい」という思いが強まり、東京を離れて農業の道に入った。金子美登さんの住み込み研修生だった小川町の有機農家、河村岳志さんのもとで学んだ。直売所代表の酒井さんはそのときの同期生。2人とも金子さんの孫弟子ということになる。
昨年は異常気象の影響が厳しかった。中澤さんは、天候の影響に強い「F1(一代雑種)」ではなく、自分で種を採って翌年も同じ作物を育てることができる「固定種」により作物を育てているので、その分、大変さが増した。「5月にはからから天気でサトイモなどの苗がダメになった。6〜7月の長雨でコメの生育が遅れ、トマトなど夏野菜も病気でやられた。秋の台風では畑が冠水し、根菜やニンジンがやられ、ヤーコンも傷んだ」と振り返る。
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