サントリーが「ラグランジュ」を再生できた理由 「神の雫」亜樹直×椎名敬一「極上ワイン鼎談」

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椎名 実は、以前のオーナーが経済的に行き詰まって、従業員が17名しかいませんでした。だから大きな畑を管理できず、荒地のまま放置していたのです。

今のように機械化が進んでも、118ヘクタールの畑を管理するとしたら、40~60名の従業員は必要です。実際、今のラグランジュの従業員数は58名なのですが、当時、私たちが畑を取得してすぐ従業員数を60名規模にまで増やしました。そして再生に取り組んだわけですが、そうしたことをしっかりアナウンスし、地元のフランス人を雇用して取り組んだことによって、根強い反対論が渦巻いていた地元の方々にも、サントリーが本気であることを理解していただけたのだと思います。

フランス人&日本人チーム構築、地元で信頼を勝ち取る

ゆう子 しっかりアナウンスメントすることによって、地元に受け入れられたということですね。

椎名 そうですね。私の前任者が鈴田健二(コマンドリー・ド・ボルドー元正会員、2009年死去)という者だったのですが、彼は「禅の国から来た紳士」と地元紙で紹介されるほど現場に溶け込みました。

一方、トップの佐治敬三はボルドーコマンドリーの正規会員になって自分のやるべきことを、しっかり地元に伝えました。また、コンサルタントとして実力者で、簡単なことでは首を縦に振らないことでも有名だった、シャトー・レオヴィル・ラス・カーズのオーナー、ミシェル・ドロン氏を招聘しました。このように、フランス人と日本人のチームをきちんと構築したことが功を奏したのだと思います。

 椎名さんは会社に希望を出してラグランジュに赴任したのですか。

椎名 私自身は1988年に、ドイツのロバートヴァイル醸造所に駐在し、その立ち上げにかかわったのがワインとの本格的なつながりのはじまりです。

トップの佐治敬三氏や現場に溶け込んだ初代副会長鈴田氏の姿勢は、しっかり2代目の椎名敬一氏に引き継がれている(撮影:梅谷秀司)

1990年に帰国してからは日本やその他の国のファインワインをどう広めていくかというプロジェクトがあり、なかでもアルゼンチンなど南米のワインを中心に関わっていたので、実は、2000年ごろに南米への異動が決まっていたのです。ところが、赴任する直前に南米で経済危機が勃発して、話そのものがなくなってしまったのです。その直後、ご健在だった鈴田さんの後任に、との打診があり、ラグランジュ駐在になったのです。

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