第二次世界大戦、日本にも響いた独ソ戦の要諦 ソ連という巨大な岩塊は流れを転回させた

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こうして、スターリンはひとまず大戦に巻き込まれることを免がれ、ヒトラーもまた、ポーランド侵攻を2国間戦争に局限する前提が整ったものと信じた。言い換えれば、ソ連の動きは、第二次世界大戦初期の枠組みを定めたのである。

さらにスターリンは、東西二正面戦争というソ連にとっての悪夢が現実とならないようにするため、極東でも手を打っていた。当時、極東ソ連軍・外蒙古(がいもうこ)軍は、ノモンハンで日本の関東軍と国境紛争に陥っていたのだが、ドイツへの接近によって西方は安泰となるとみたスターリンは、ノモンハンに機甲戦力を集結させ、8月20日に攻勢を発動させたのだ。衆知のごとく、日本軍は大損害を出し、停戦交渉を余儀なくされた。

なお、冷戦終結後に機密解除された文書から、ソ連軍の消耗も激しかったことが確認されたこと、また、国境画定についても、ある程度日本側の意見が容れられたことから、日本軍はノモンハンで勝ったとする向きも出てきた。しかしながら、ソ連軍が、関東軍に打撃を加えることによって、日本陸軍を対ソ慎重論に傾かせ、戦略目的である東方の安定を達成したことを考えれば、そうした主張は観念的な空論であると判断せざるをえない。スターリンは、いわばノモンハンの戦闘をもって、日ソの大戦を回避することに成功したのである。

独ソ開戦と日本

独ソ不可侵条約締結によって、英仏の介入を押しとどめうると確信したヒトラーは、1939年9月1日、ポーランド侵攻に踏み切った。けれども、彼の情勢判断は誤っていた。2日後、英仏はポーランドとの保障条約を守って、ドイツに宣戦布告する。ヒトラーの誤断から、ドイツは2度目の欧州大戦に突入したのだ。それでも、ドイツはポーランドを征服し、翌1940年にはベネルクス3国とフランスを降伏させたが、イギリスはなお抗戦しつづけた。

こうして手詰まり状態に陥ったヒトラーは、イギリスが戦争を継続するのは、いずれソ連が味方になると期待しているからだと考えた。だとすれば、ソ連を打倒しなければ、戦争は終わらない。しかも、ソ連の植民地化は、かねてヒトラーの目指すところであり、収奪によってまかなわれているドイツの戦時経済にとっても必要不可欠である――。ヒトラーはソ連侵攻を決断した。1941年6月22日に発動された「バルバロッサ」作戦である。

交戦国であると中立国であるとを問わず、ドイツが対ソ戦に突入したことは大きな衝撃であったが、とりわけ影響を受けたのは日本であった。当時の日本は、中国での戦争やドイツとの同盟(1940年9月、日独伊三国同盟締結)を巡って、アメリカとの対立を深めつつあった。その日本に、仇敵ソ連をドイツとともに東西から挟撃するチャンスが巡ってきたのだ。

ゆえに、独ソ開戦を伝える最初の情報(1941年6月5日に、大島浩駐独大使が報告してきた)を得て以来、東京では、対ソ政策を巡って、激しい議論が交わされることになる。松岡洋右外務大臣は、4月に日ソ中立条約を締結したばかりであるにもかかわらず、即時対ソ参戦を主張した。対ソ戦に引き込まれることを警戒する海軍は、独ソ戦への介入反対を唱える。陸軍に至っては、南進論、北進論、南北準備論(対ソ、対英のいずれにも開戦することなく、南北両面に対応できるよう戦力を強化すべしとの主張)に分かれ、内部でも対立する始末であった。

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