「全ての道はローマに通ず」とワインビジネス《ワイン片手に経営論》第4回 

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■「全ての道はローマに通ず」に観察されるローマ人の技術

 その一つは、輸送技術です。ローマ時代は、ガリアを大きな新興市場としてワインが広まっていったわけですが、それと同時にワインを遠くまで運ぶ技術の必要性が極めて高くなったためです。本コラムの第3回に記した通り、ギリシャ時代にはワインを内陸の奥深くまで陸上輸送することが困難で、マルセイユやナルボンヌといった南仏の港町を中心に地中海沿岸までしかワインを運ぶことができませんでした。そして、この内陸輸送の問題を水路と道路の輸送技術面でブレークスルーしたのがローマ人でした。

 まず水路ですが、浅い川の航行が可能な平底船を開発し、2000リットルから3000リットルの大甕(ドリウム)をこうした船に載せて輸送したのです。マルセイユとナルボンヌの間のマルセイユ寄りにフランスの内陸につながるローヌ河の河口があります。イタリアで造られたワインは、一旦、マルセイユやナルボンヌで積み替えが行われ、ローヌ河を遡上して輸送されたのです。実際に、シャロン・シュール・ソーヌでは1950年に河床の浚渫工事の際に、2カ月で2万4000個のアンフォラの破片が発掘されました。シャロン・シュール・ソーヌは、ローヌ河をさらに北上し、ヴィエンヌを過ぎてリヨンでぶつかったところで支流のソーヌ河をさらに北上したところにある街です。発掘されたアンフォラの残骸から、この地が大規模な積み替え作業を行う河港であったことが明らかになりました。

 次に道路ですが、「全ての道はローマに通ず」という言葉が象徴するように、ローマ時代の道路は、イタリア半島のみならず、ローマ帝国の支配圏内いたるところに張り巡らされました。ローマ時代の紀元2世紀初頭の道路地図を見ると、すでに北はイギリスやオランダ、西はポルトガル、南はアフリカ北部モロッコからエジプト、東はメソポタミアまで道路があることが分かります。当然、ガリアもその範囲内です。

 今の国道に相当する主要幹線は372本で、8万6000キロに及びます。アメリカ合衆国も20世紀になってから大陸を縦横に結ぶインターステート・ハイウェイを建設しましたが、その総延長数が8万8000キロですから、ローマ時代の道路網の凄さがよく分かります。

 こうした道路は、軍事目的が主で、有事の際にすばやく現場に駆けつけることができるように平坦で重い荷車も往来できるように整備されていました。重装備した軍隊や荷駄が通行できるように、道路は可能な限り直線的で、また、あらゆる天候において通行できるように石や砂利を敷き詰め、排水をよくするといった工夫が施されていたのです。当時の道路の断面はさまざまな古文書から窺い知ることができ、さまざまな断面構造があったようですが、概ね4層程度に分かれていて、車道、歩道、排水溝なども存在し、道路幅の規格も存在していたことが分かります。また、道路工事の様子を描いた絵をみると測量している人やローラーを引いている人などがいて、現在の工事風景とさほど変わらないように見えます。

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