医者の数は「田舎に少なく」「都会に多い」のウソ 埼玉県の医師数は「鳥取の半分」程度しかない
日本が医師不足に陥った理由を解説するため、まず近代の医師養成の歴史からふり返ってみましょう。江戸時代に漢方医学が主流だった医療界に、明治・大正期には西洋医学が一気に流入します。初期の頃の医師養成を担ったのは、旧帝国大学7校(北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)です。
さらに1919(大正8)年の大学令施行により、旧制医科大学7校(国立の千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本、および京都府立医科)が設立されます。私立名門とされる慶応義塾、東京慈恵会医科、日本医科の3校も同じくらいの歴史があります。
1930年代は戦争の影響で軍医の需要も増加し、旧医専と呼ばれる29校が医学専門学校(国立12、公立7、私立10)として登場します。この頃の日本の人口は6000万~7000万人、平均寿命も50歳前後しかありませんでした。
戦後「医療のニーズ」が急上昇
第2次世界大戦後になると、人口増加、高度経済成長、1961年の国民皆保険の導入、衛生状況の改善や医学の進歩による平均寿命の延びが相まって、医療のニーズがどんどん高まります。
当時は18歳人口の約700人に1人が医者になる時代で、1969年の医学部定員は1学年4040人、各地で医師不足が問題になります。そのため、田中角栄内閣のもと1県1医大構想が進められ、34校の新設医科大学(国立17、大学校1、私立16)が作られることになります。
計80校の医学部がそろい、医学部定員は1学年8280人にまで増え、約230人に1人が入学できるまで枠が広がります。しかし、1980年代になると医療費亡国論とともに医師過剰が懸念され始め、一転、医学部定員削減(最少で1学年7625人)の時代に入ります。
現代からふり返ると、さまざまな要素を考えに入れずに医学部の定員や設置場所が決められたことが、その後の医師不足や偏在の遠因であることがわかります。例えば、地域の人口規模の変化や寿命の延び、医療レベルの高度化や専門の細分化、医師の適正な労働時間やその年齢ごとの変化、女性医師の増加と男女間の労働時間の差異など、医師の勤務状況に関係する因子は数多くあります。
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