エスカレーターを歩く人にも「言い分」はある 定着したものをやめるのは容易ではない

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例えは悪いが動物の大群に隕石が落ちると当たった者は即死だが周囲を行く者は何事もなかったように石をよけて黙々と移動を続ける姿に似ている。責任者や公的機関に訴えようなどと考える人はおらず運が悪かったの一言で大概のことは済ませてしまう。一日が終わり家に帰ると何を成し遂げたわけでもないのにえらい充足感に包まれるのだった。

だから日本でエスカレーターを人が歩くのを本気でやめさせたかったら、速度を上げるなり幅を狭くあるいは傾斜を大きくするなりして歩く必要性をまったく感じさせなくする=手すりにしっかりつかまらなければ危険な乗り物であることをはっきり認識してもらう以外ないでしょう、などと暴論を言うつもりはない。しかしあらゆるインフラや機関がその精巧で完璧な機能と安全性を保持しそこに寄せられる人々の信頼および安心感が絶大である以上、今さら切実な危機管理意識を持って行動してもらうのはなかなか難しい。

なぜならその信頼がなくなるとき=信頼を覆す大事故が発生したときにほかならないからだ。なんだかんだ言っても大丈夫、何も起こりはしないと安心しきっている人々が安穏とくつろぐ空間で、あえて危機感を持ちエスカレーターの反対側あるいは中央で堂々と手すりを握りしっかり立つことによって自分自身がその秩序を乱す、あるいは乱されることのほうを皆はずっと怖れている。

中国では公共空間に警戒感がある

私たちがその安心感からついなめてかかってしまっているのは物に対してばかりではない。駅係員に対する暴行や公共空間での痴漢行為は中国ではあまり見られないことだがその理由として、サービス業従事者であれ女性であれ手出しされても黙って我慢するとか冷静に警察に突き出すということはない、相手が誰であれその場でただではおかないからである。

バッグで殴るか蹴りをかますか、その罵り声を聞いたストレスのたまった人々が待ってましたとばかりに加勢して間違いなく半殺しにされるだろう。というのは半分冗談にしても、そもそも赤の他人に対し強い警戒心があり、外で偶然居合わせただけの見ず知らずの他人に薄気味悪いような得体のしれない恐怖感を持っているのが普通である。

口喧嘩ならいいが、そんなものにわざわざ手を伸ばして触る気にもならない(雑踏や行列で無意識に当たったりぶつかっても互いに気にしないのはそれをコミュニケーションを要する人間の集合体と見なさずやり過ごすことによる)。

殴ったり触ったりというのはよく知った者同士、親しい間柄で成り立つ行為なのである。電車の泥酔客や終着駅まで寝過ごすサラリーマンも海外の人には珍しい風景だが、これがニューヨークや上海なら財布はもちろん金目のものはすべて取られて服もなくなっているかもしれない。

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