若桜鉄道の社長はなぜ「船会社」に転職したか 秘策は「忍者高速船」を使ったキャンペーン
―― 三重県といえば、伊賀忍者の本拠地。忍者高速船で津に降り立つだけでは終わらないことが期待できますね。
このキャンペーンは第1弾と位置づけている。現在、事業者らと三重県内の各地で忍者を体験し、楽しめる、「忍者ツーリズム」の連携を画策している。この集まりを「忍者秘密結社」と仮に名付け、毎回の会議は「密議」と呼ぶなど、観光客が求める遊び心を忘れないように仕掛けている。
津藩の初代藩主・藤堂高虎(とうどう・たかとら)は家康以来、徳川家の諜報部隊を取り仕切っていたとされ、いわば忍者の総元締めだった。津港からは、津城跡や高田本山専修寺(せんじゅじ)、津観音など、高虎ゆかりの地はすぐ。さらに、伊賀市の忍者博物館・忍者屋敷、伊勢市の伊勢安土桃山城下街など、忍者に出会える場所への玄関口ともなる。それらをつなげていこうという構想のスタートが、忍者高速船キャンペーンだ。
若桜鉄道でとった活性化策とは
―― 前職の若桜鉄道時代についても教えてください。なぜ公募社長に応募したのですか。
日本の国有鉄道は明治以来、国土を結びつける装置として建設されてきたため、途中にある地方は二の次、駅は最低限、貨物列車や大都市間を結ぶ特急最優先、といった運営をされていた。その後、ローカル線が次々と第三セクターとなり、「お国のため」から「地域のため」にシフトして、通勤・通学の利便性を高めるとか、地域を活性化させるために鉄道が協力するといった方針に変わる必要があった。しかし現実には、地域からの要望や提案に対して応えず、体質を変化させなかった。
すると、「何を言っても鉄道は応えてくれない。それならなくてもいいのではないか」ということになり、どんどん廃線になっていった。その状況を見ていて、鉄道を地域のお荷物ではなく、地域を活性化していく装置にしたいと、手を挙げた。
―― どんなところから地域と若桜鉄道の活性化を実行したのですか。
大きく分けると2つ。1つは、沿線の経済を回すために観光を興すこと。SL走行社会実験をはじめとした“照明弾”を打ち上げては、その光が消える前にエージェントに営業をかけまくり、その後、毎週、毎日ツアーが来るように働きかけた。またその過程で、迎える側の地域の人を育てなければと沿線各地でワークショップを開き、その都度飲み会を開いては有志の絆を深めたり、隣の町をガイド付きで訪問するツアーを組んだりして、地元の魅力に気づく体験をしてもらい、観光や交通のプロから指導を受けた。それによって、“おもてなし”にとどまらず、ビジネスとして観光を考えてもらうようにした。
はじめは「こんな田舎」「なんにもない」「こんなところに」とネガティブワードを口にしていた人も、SLで1万3000人もの人が集まる場面にボランティアとして関わることで、初めて若桜谷という地域が1つになる感覚を味わい、「やればできる」という体験をした。大切なのは、その体験を忘れないうちに、次の照明弾を打ち上げることで、意識改革を定着させることだった。
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