《戦略講座》東レの炭素繊維事業を「デルタモデル」で解説する
■「需要が拡大しないからコストが下がらない」悪循環
議論を元に戻そう。ボーイング社は、なぜ東レと16年もの独占契約を結んだのか--。東レの炭素繊維には三菱レイヨン、東邦テナックスと比べ、何か圧倒的な技術優位があったのだろうか。或いはコスト優位を有しているのだろうか。ビジネススクールで学ぶ人であれば恐らく、その理由をまずはマイケル・ポーターの「三つの基本戦略」(コスト・リーダーシップ戦略、差別化戦略、集中戦略)に求めるだろう。実際、東レもコスト競争や差別化競争で他社に抜きん出ようとしてきたように見える。
しかし有望と思われた炭素繊維は意外にも、航空機や自動車といった大きな市場では、なかなか受け入れられない。「それはまったく新しい素材だから。最初はゴルフクラブ、テニスラケット、釣り竿に使った。スポーツ用途は折れても墜落しませんから。それで稼ぎながら、航空機用途の認定作業をずっと続けてきたのです」(榊原社長)というように、高度な安全性を要求されるがゆえに研究開発や設備投資に莫大なコストを要する。その一方で、いつまで経っても需要が拡大しない。需要が拡大しないから、規模化が進まず、価格も下げられないし、品質も一気呵成には向上しない。
これを顧客となる航空機・自動車側から見れば、「いずれ使う時代が来るだろう」とは思いつつも、鉄や合金、ガラス繊維といった代替品と比べて異常に高額な素材に食指は動かない。素材メーカーが技術を深化させ、生産技術を精査し、合理的な価格と充分な品質を実現してから採用を決めて大量購買に進みたいと考える。そうこうするうちに代替品も着実に進化してコストメリットも出てくる--。
要は、差別化戦略もコスト・リーダーシップ戦略にも進めない。この悪循環が炭素繊維の本格的な事業化を遅らせ、40年にわたる歳月を取らせた真因だろう。
ただ、東レには「必ず構造材料に使えるという技術的根拠、確信があった」(榊原社長)そして幸いにして研究開発を重んじ、長期的視点で経営ができる風土があり、こうした息の長い事業を株主も容認した。そうする中で、自然と見えてきた方向性。それが「デルタモデル」で言うところの「システム・ロックイン(囲い込み)」の状態を目指すことだったと筆者は考察している。
■「三つの基本戦略」「VRIO」を補完する「デルタモデル」
さて、ここで簡単に「デルタモデル」(*4)について紹介しておこう。デルタモデルは、先に挙げたポーターの「三つの基本戦略」と、ジェイ・B・バーニーの「VRIO」(Value、Rarity、Inimitability、Organizationにより企業の内部資源の強みを検討する)という、二つの代表的フレームワークを補完する戦略モデルとして完成された。
「トライアングル」、「適応プロセス」、「総合メトリクス」、「細分メトリクス」および「フィードバック」という5要素から構成され、戦略立案から企業内での適合の確認、そして実務への落とし込み、振り返りまでを行える優れたフレームワークだが、とりわけ重要なツールとなるのが、新たな収益性の源泉となる三つの戦略オプションを提示する「トライアングル」(下の図)だ。このトライアングルで提示する戦略オプションが、「ベスト・プロダクト」、「カスタマー・ソリューション」、そして今回、東レの炭素繊維事業を説明する「システム・ロックイン」だ。
提唱者のハックスらによれば、ポーターの三つの基本戦略は、コスト・リーダーシップにせよ、差別化にせよ、いずれの場合も製品のエコノミクスに主眼を置いているという意味では、「ベスト・プロダクト」に包含される。しかし、企業が競争していく方法論は低コスト、差別化以外にも存在し、それがカスタマー・ソリューション、システム・ロックインだと説明している。
トライアングルでいうところのカスタマー・ソリューションは、「より幅広い製品やサービスを提供することにより、全てといわないまでも大半の顧客ニーズを満たそうとする戦略オプションである。この戦略では、プロダクトのエコノミクスよりも顧客のエコノミクスに主眼を置く」(『MITスローン・スクール 戦略論』(東洋経済新報社・刊))として、“通信”を機軸に短・長距離電話からデータ通信、無線通信などに事業領域を広げてきたMCIワールドコムが例示されている。
一方、システム・ロックインについては「製品や顧客という狭い範囲に限定せず、企業は経済的価値の創造に貢献するシステムにおける重要な参加者すべてを考慮する。(中略)ここで重要なのは、システムのアーキテクチュア全体を見渡すことだ。競合企業を閉め出し顧客を囲い込むために、いかに補完者のシェアを獲得すればいいのか。そのためには、デファクト・スタンダード(事実上の標準)の実現が鍵となる」(同)として、業界標準を握りマーケットリーダーとなったマイクロソフトやインテルのほか、電話機メーカーと携帯電話メーカー、テレビやビデオデッキのメーカーとビデオソフトメーカーの関係などが挙げられている。
*4 詳しくは『デルタモデル-ネットワーク時代の戦略フレームワーク』(ファーストプレス・刊、アーノルド・C・ハックス、ディーン・L・ワイルド2世・著)を参照されたい。
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