マダムが夢中!「介護福祉のアイドル」の素顔 役者の道を離れて介護予防の道へ
目鼻立ちがはっきりした日本人離れした風貌の久野さんは、物心つく前から町中でよく、「タレントになりませんか?」とスカウトされていたそうだ。小さい頃は喘息を患っていたこともあって、両親は取り合わなかったそうだが、10歳のときに自ら一歩を踏み出した。
「小学校に入ってサッカーを始めたんですが、10歳のときに足を痛めてサッカーを辞めたんです。そしたら週末が暇になってしまって。暇そうにしているのを見かねたのか、母親が冗談で『タレントでもやったら?』と言ったのを真に受け(笑)、新聞の端に載っていた広告を見て、自分で応募しました」
応募先はセントラル子供劇団。偶然にも、幼い頃の久野さんによく声をかけていた事務所で、トントン拍子に子役となった。
それからたくさんの仕事を受けるようになった、久野さんの転機になったのは、高校2年生、17歳のときに出演したドラマ『ウォーターボーイズ2』(2004年7月~9月に放送)だ。男子高校生たちがシンクロナイズドスイミング部を設立して奮闘する学園モノで、市原隼人、石原さとみ、小池徹平らが出演していた。久野さんは、最終回には視聴率22.8%を記録したこの人気ドラマが、「生きていくうえでいちばん重要だった」と振り返る。
「人に何かを教えるのは面白いな」
「ボーイズが32人いたんですけど、最初はそのうちの25人ぐらいが泳げなかったんです。だから、最初の2カ月間は泳ぐ訓練だけ。水泳の合宿でいろんなところに行きました。そのとき、僕は32人の中で下から2番目の年齢だったんですが、3歳から水泳をしていて、小6、中1のときには全国大会の100m自由形で7位になったこともあったので、先輩たちから『泳ぎを教えて』と言われて、何人かに教えたんですよ。まったくの我流でしたけど、それをきっかけに、人に何かを教えるのは面白いなと思うようになったんです」
『ウォーターボーイズ2』の撮影が終わると、地元の片瀬海岸でライフセービングのアルバイトを始めた。そのときに、日本赤十字社認定の救急法救急員、水上安全法救助員の資格も取得。ライフセービングの仕事がない季節は、子どもたちに水泳を教えるようになった。
日本大学芸術学部に進学してからは、フィットネスジムで水の中のパーソナルトレーナーを始めた。脳梗塞で麻痺が残る人のリハビリをプールで指導するような仕事だ。
しかし、ライフセービングやパーソナルトレーナーは、あくまでアルバイト。大学で腕を磨き、役者として生きていくつもりだった。
ところが、ある出会いが運命を変える。大学2年生の冬のある日。仕事で知り合った著名な映画プロデューサーから、「お前は出るより作るほうが向いてるよ」と言われたのをきっかけに、製作側の勉強をしようと、そのプロデューサーの秘書についた。そして大学に通いながら、弟子のような立場で企画書の作成から、経理、映画のおカネを集めることまで何でも任されるようになり、とにかく必死に駆け抜けるような毎日だった。そうしてあっという間の1年が経った頃、久野さんは芸能界から離れることを決める。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら