これが鬼畜でなくて何でしょうか。産むのは一人前で、その後は動物以下の人間がこれほど多く、絶えることがないことに開いた口がふさがりません。このように民事不介入では救えない命が多すぎることから、児童相談所の権限も拡大され、警察との連携で多くの命が救えるシステムになったと理解してきました。
事件が起こるたびに、「二度と繰り返さないよう、これから会議をし、検討します」と繰り返してもきました。ところでいくら会議しても教訓が生かされない以上、それらはすべて、ポーズにしか見えません。彼らは前例主義とポーズだけで給料がもらえる結構な身分だと言わざるを得ません。命を預かる役所がこれでいいのでしょうか。
不作為の罪を問うべきだ
例えば結愛ちゃんの事件では、先の2月9日に、面会を母親に拒否された段階で、そのまま放っておいた児童相談所職員とその上司等は、明確に不作為の罪に問われる法を作るべきです。そうでなければ、いったい何のための児童相談所でしょうか。
6月8日の小池百合子知事は、「品川児童相談所が出かけたが、会えなかったという不幸が重なり、尊い命が奪われた」と都の定例会見で述べています。「一度は訪問した。会えなかった不幸が重なっただけ」と言っているように聞こえましたが、6月9日朝のフジテレビに出演した後藤啓二弁護士によると、3年前から児童相談所の対応を改善することを求める要望書を何度も提出してきたが、知事からも児相からも、無回答が続いたそうです。
5歳の結愛ちゃんは、「これまでどれだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします」と書き、電灯も暖房もない部屋で「勉強」させられて、逝きました。
なんて悲しいことでしょうか。それまでに何度も救うチャンスはあったのは、上記の通りです。
そして今回もまた、不作為の罪に問われる公務員は一人もいません。「胸は痛む」という道義上の責任があるだけでしょうか? 解釈が複雑で適用が難しい法を何本も作るより、この段階でも明らかに不作為による罰則規定を作る方が、数倍、救われる命があるのは確実です。こればかりは性善説に限界があると、訴えるものです。
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