成長神話は潰えたのか...インド自動車市場、挫折の先の「熱気」
「ナノの工場は移転する。夢は打ち砕かれた。極めてつらい決断だが、ほかに選択肢はない」
10月3日に開かれた緊急会見の席上、インド自動車大手、タタ・モーターズのラタン・タタ会長はそう言葉を絞り出した。「ナノ」はタタがインドで出す“世界でいちばん安い自動車”だ。全長3・1メートル、エンジン排気量623cc。価格はたったの10万ルピー(1ルピー=約2・3円、約23万円)。
「インドでは2輪車に家族4人が重なるように乗っている。雨の日でも安全に乗れる国民車を造ろうという、タタの発想に脱帽する」
「あんなものは幽霊だ。出るか出ないかわからない。エンジン、車体、変速機と車軸だけで30万円は優に超える。実際に造れるはずがない」
業界はナノ登場の話題で持ちきりになった。5月にはカルロス・ゴーン日産自動車社長が「ナノの価格を下回る2500ドルカーを造る」と宣言し、さらなる波紋を呼んだ。
潜在的な課題が噴出 ナノ新工場頓挫の打撃
ガソリン高やエコを背景にした小型車シフトは以前からの傾向だが、ナノは輪をかけて小さい“ウルトラ小型車”時代の到来を告げた、はずだった。
当初、ナノは今年10月に発売予定だった。それに向けて、インド東部西ベンガル州シングールで主力工場の建設が進んでいた。ところが完成間際の8月になって、土地を提供した地元農民から抗議行動が湧き起こる。州野党のバナジー党首という野心的な政治家も裏で強力に糸を引いたといわれる。デモは過熱し、工場への道路は封鎖され、出入り口もバリケードで包囲された。関係者への暴力行為まで発生し、工事は中断。事態の長期化を嫌ったタタが、最後に白旗を揚げた。
『タタ財閥』の著者である小島眞・拓殖大学国際学部教授は今回の騒動で、「インドの抱える問題が図らずも表面化した」と見る。1894年に制定された土地収用法は、公共目的のためなら無条件に土地を収用できるとしている。タタもこの法律に従ったが、「一民間企業が雇用創出という大義名分で同法を使ったのが問題視された。さらに土地の中でも、農地を工場建設目的で収用することにはインドでも抵抗が強い。特にシングールの予定地には、水田地帯や優良な農地が含まれていた」。
撤退発表から4日後、タタ会長は再び会見し、シングールとちょうど反対側の西部グジャラート州アーメダバード近郊に「新しいわが家を得た」と明らかにした。新工場が建つ同州は港が近く輸出に至便。タタが落札したウルトラメガパワープロジェクト(電力省と中央電力公社の国家計画)の拠点ムンドラや、タタと並ぶ大手財閥リライアンスの巨大石油化学プラントもある大産業地帯で、次善の策としては悪くない。「プネーにある工場では4000~5000台のナノ完成車が生産されているとの情報」(小島氏)もあり、それらを順次出荷すれば、新工場完成までの間は持つ。
ただ、シングールに投じた500億円はパーだ。新工場にはさらに400億円かかる。ナノの詳細なコスト分析を行ってきたいわかぜキャピタルの川原英司パートナーは「1台10万ルピーという値段はタタの“約束”。スペックを見直してでもその価格は守るだろう。が、追加投資で赤字は膨らむ。事業を続ける動機が弱まり、販売費などのリソース投入が減って、予定していたほど売れないかもしれない」と予想する。