32歳、飲み屋で歌って生計を立てる男の大望 高校中退、会社勤め、結婚を経てたどり着いた

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四元さんが生まれたのは1986年3月の鹿児島県。まもなくして埼玉県朝霞市に移り、実業家の父と専業主婦の母、2つ上の姉がいる家庭で育つ。4人家族だが、父は仕事の付き合いもあって家を空けることが多く、たまに帰ってきても酩酊してばかりいた。それが原因で両親がけんかしている姿が目に焼き付いている。一方で、酔った父がギターをつま弾いて歌ってくれた楽しい記憶も残っている。たまに行く家族旅行では皆で旅館のカラオケに興じるのが恒例だった。

「音楽好きになったのは確実に父親の影響です」と振り返る。

小学校を卒業する際、卒業証書を受け取るときに将来の夢を声に出す決まりがあり、そこで「将来は音楽をやっています」と宣言したことを覚えている。折しも1990年代後半。ヒットチャートを何曲ものミリオンヒットが彩り、音楽業界に夢があふれていた時代だ。

実際に弦に触れるようになったのは中学生になってから。中学は両親の意向もあって東京新宿にある中高一貫の私立校に通うことになったが、音楽でつるむのは地元の友達だった。学校から帰るとギターを持って地元を流れる黒目川の土手へ行き、手元が見えなくなるまで仲間と練習した。やがて友人の一人とアコースティックデュオを組んで駅前でも演奏するようになり、コピーだけでなくオリジナル曲を披露するようにもなった。

厳しい現実と反抗期

両親が離婚したのはその頃だ。

「姉と一緒にリビングに呼ばれて、その場でどっちについていくのか決めなさいと言われました。夫婦げんかは慣れていましたけど、離婚までは想像していなかったので突然という感じでしたね」

2人とも母親につき、父親だけが家からいなくなった。その後も父親とは定期的に会ってはいるが、家庭が壊れたショックは小さくなかったという。

母親は生活のために仕事を始めた。そのおかげもあって目に見えて生活水準が落ちるような経験はなかったが、金策に苦労している様子はそこはかとなく伝わってきた。おカネの大切さが身にしみた初めての体験だったかもしれない。

家庭も暮らしも決して盤石なものではない。自分ではどうしようもない理由で簡単に壊れる。そんな厳しい現実と反抗期が重なって、四元少年は学校を中退してしまう。クラスの同級生と馬が合わないわけではなかったが、とにかく地元で過ごしたかった。学校をサボりまくり、あえて出席日数不足になることで留年を余儀なくさせて、そのまま退学に向かうように強引に持っていった。高校1年、16歳のときだ。

それからはファミレスと建設現場の清掃業のバイト、そして音楽だけの日々。何の保証もないが自信だけは満ち満ちていた。演奏と歌唱力は仲間のなかで随一だったし、作曲できるのも自分1人だった。バンドは組んでいなかったので、ソロで演奏してデモテープをレコード会社やライブハウスに持ち込み、メジャーへの扉が開くのを待った。

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