トヨタ「クラウン」15代続く国内専用車の本質 使い勝手や耐久性、ローカルな価値がある
実際、A50ケンブリッジのあと誕生する日産セドリックは、クラウンと双璧を成す国内高級車として販売を競ってきた。ところが1999年の10代目まででセドリックの名は2004年に歴史の幕を閉じ、以後、海外ではインフィニティブランドで販売されるフーガに替わった。国内専用車を止めたのである。
日本の自動車メーカーは内製主義を貫くところが多い。自社で独自開発を行うことにより高い技術水準を維持し、なおかつ独自性を持つことができると考える。日産やホンダなど国産メーカーの多くが同様の姿勢だが、ことにトヨタはその志向が強いと感じる。
初代クラウンの後期に、トヨグライドと名付けられた独自開発の2速オートマチック変速機が1960年に追加設定された。対する日産セドリックは、アメリカのボルグワーナー社製の3速オートマチックを1964年に採用している。運転性能としては、1940年からオートマチック変速機を実用化してきたアメリカ製が勝っていたが、独自技術にこだわるトヨグライドは、その名称の浸透とともに、当時は開発製造と販売が別会社であったトヨタ自動車販売の販売力にも後押しされ、トヨグライドのトヨタ車に乗ることは日本人として一つの誇りでもあった。
トヨタ自動車販売は、月賦販売(今日の自動車ローン)を確立することで確実な新車販売と収益を推し進めるため、1950年にトヨタ自動車工業から分離して設立された販売会社である。32年後の1982年に、工業と販売を表裏一体の事業とすべく合併し、今日のトヨタ自動車となった。
クラウンへの憧れをより強いものにした
当時、「技術の日産」と評される一方、「販売のトヨタ」と異名をとったトヨタ自動車販売の力量は世の認めるところであった。そして、「白いクラウン」(1965年)や、「いつかはクラウン」(1983年)といった宣伝文句が、クラウンへの憧れをより強いものにしたことはまぎれもない。
そうした販売戦略面だけでなく、クラウンは、初代から使う人々の気持ちや声を大事に開発されてきた歴史を持つ。
初代クラウンは、車体中央から前後のドアが開く、いわゆる観音開きの方式を採用した。これは、中村主査が「文金高島田の花嫁さんにも乗ってもらうため」との思いから採用されたと伝えられる。しかし、車体中央の柱(センターピラー)に前後のドアを施錠する機構を持たせしっかり閉じるようにするために、開発は艱難の苦労があったといわれる中での出来事だった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら