北朝鮮は制裁を強化しても笑い続けている 制裁強化が体制強化につながっている事情

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「1988年2月20日、金日成主席が主催した党政治局会議で提起された。この計画の発表後、約10万人を動員した平壌市群衆集会を皮切りに、群衆集会を全国で37回行った。同時に、メディアを通じて200日戦闘を広報し住民の参加を訴えた。この運動を鼓舞するために詩人や芸術家に詩や歌謡を創作させ、人民班(北朝鮮社会で最基層の社会組織)を総動員して群衆政治事業を大々的に展開することになった」 

「しかし、北朝鮮は200日戦闘でこれといった成果を出せなかったと判断すると、戦闘が終わる前である9月に『全国英雄大会』を開き、第2次200日戦闘を始めた。朝鮮のすべての人的・物的資源を総動員してでも、世界青年学生祭典の準備を終えようとしたものだった。その結果、順天(スンチョン)ビナロン企業所第1段階工事が完工し、沙里院(サリウォン)カリウム肥料連合企業所第1段階工事、金策(キムチェク)製鉄所拡張工事、中小型水力発電所建設などの成果が見られた。また首都大建設という名目の下、平壌に260カ所ほどの施設が建築された」 

国力水準に合わない多くの体育施設を建設

1995年に韓国に亡命した黄長燁(ファン・ジャンヨプ)元労働党書記の証言にも、同じような内容がある。

「金正日はソウルでオリンピック開催に刺激を受けたようで、膨大な規模の体育施設を建設することに熱を上げた。彼は平壌でもオリンピックを開くとし、国力水準に合わない多くの体育施設を自分の気分次第で着工した。揚げ句の果てには、平壌を世界一流の現代都市にするとし、目抜き通りとなる光復通りや統一通りを建設せよと人民たちに要求した」

このような記述をそのまま分析すれば、「北朝鮮経済は脆弱だったにもかかわらず、持ちうる資源を使い切るほどかき集め、無謀な建設事業に人民を動員した。そのため、北朝鮮経済が崩壊する決定的なきっかけとなった」と判断できる。

しかし、当時の経済活動の内訳をよく見ると、北朝鮮の基幹産業である化学系工場や製鉄所、水力発電所などをリニューアルし、同時に平壌の都市整備などを推進したともいえる。平壌祝典の準備のため、1988年の200日戦闘だけが特別なのではなく、それ以前から北朝鮮は資源を動員して建設事業に注力していたのだ。

また、平壌祝典の準備という名目で、北朝鮮住民と各機関からさまざまな名目をつけて募金を行った。これについては、非公式の経済部門に存在していた財源を引き出すことで公式経済部門の活性化を図ったと見ることも可能だ。そんなことができるほど、すでにこの時期から非公式経済部門が北朝鮮経済で相当程度に拡大していたわけである。 

1980年代、旧ソ連からの留学生として平壌に留学していた韓国・中央大学のアンドレイ・ランコフ教授の著書を読むと、当時の平壌市内ではチャンマダン(闇市場)経済が拡大していたことがわかる。1989年の平壌祝典に向けた経済動員によって、非公式経済に存在する資金を公式経済へと吸い上げた。1990年を前後して社会主義国家が連鎖的に崩壊していたが、この資金吸収が功を奏したことにより北朝鮮は体制崩壊しなかったとも考えられる。

当時の北朝鮮の対外貿易はどうだったか。旧ソ連との貿易は1991年の40億ドル水準から20億ドルへと半減。そしてそのわずか数年後には1億ドル未満へと急縮小してしまう。この急激な変化は、北朝鮮経済に深刻な影響を与えた。

1990年代半ばの「苦難の行軍」と呼ばれる深刻な経済難をもたらした決定的な理由は、1989年の平壌祝典の準備で疲弊したからだけとはいえない。1990年代初頭の旧ソ連との貿易急減が大きく響いたとも考えられるのである。

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