「自民党」盤石じゃないが優位は崩れない理由

固定票は減っていても他党に比べれば分厚い

このような傾向は、1998年に結成された民主党が新進党に代わる野党第1党として台頭してくると、強まる。自民党は、2001年の参院選の直前の総裁選挙で、小泉純一郎を総裁に選んだ。その直後に小泉は、「陳情に来たり、あるいは政策提言に来る人たちというのは、一般国民に比べればごく少数です」と指摘し、「今多数派となっている無党派層をおろそかにしてはいけません」と語っている。こうした認識に従い、小泉は構造改革という名の新自由主義的改革を断行したのであった。

小泉内閣の登場を契機に、無党派層の動向が重視されるようになり、内閣支持率が政治に大きな影響を及ぼすようになった。「世論調査政治」である。小泉は必ずしも順風満帆の政権運営を続けたわけではなかったが、この面で天才的な能力を発揮した。「普通の人々」の味方として、派閥や族議員といった既得権を持つ「抵抗勢力」と戦い、改革を推し進める劇場型政治の手法によって、有権者の支持を調達したのである。こうしたポピュリズムの最大の成功例が、2005年の郵政選挙での大勝であった。

ところが、移り気な無党派層を小泉のようにつなぎ止めるのは、至難の業である。しかも、2大政党の一角として民主党が台頭していたから、なおさらであった。ポスト小泉の自民党の3人の首相、すなわち安倍晋三、福田康夫、麻生太郎は、内閣支持率の低下とともに求心力を失い、危険水域とされる30%を割り込み、退陣に追い込まれるというパターンを繰り返した。小泉を支持した無党派層は、最終的に民主党に向かい、2009年の政権交代が起きることになった。

2度にわたる広報改革

固定票が個人後援会や友好団体を媒介として政党と結び付くのに対して、無党派層は主にメディアを通じて政党に関する情報を得る。したがって、無党派層の台頭は、メディアの政治的役割を必然的に高めることになった。そうしたなか、自民党は広報改革を実施することで、メディアに対する働きかけを強め、固定票を超える支持を獲得しようとした。大きな広報改革は2度にわたって行われた。第1次が小泉政権後半の2003~2005年、第2次が野党時代の2009~2012年である。

まず、第1次広報改革は、小泉総裁が2003年に幹事長に起用した安倍晋三を委員長とする「党改革検証・推進委員会」によって、党改革の一環として始められた。2004年の参院選後、その敗北の責任を取って幹事長代理に降格した安倍を本部長とする総裁直属の党改革実行本部へと引き継がれる。その中心を担った1人が、世耕弘成参議院議員であった。世耕は、民主党のほうがテレビCMをはじめ広報戦略で先行していることに強い危機感を抱いていた。

PR会社のプラップジャパンと契約した自民党は、2005年の郵政選挙の際に広報改革を急速に推し進めた。広報にかかわる部署の党職員を横断的に集め、そこにプラップジャパンの社員を加えてコミュニケーション戦略チームを設置し、テレビの討論番組の出演者の選定、テレビCMの制作、世論調査データの分析、新人候補のメディアトレーニングなどにあたった。これが郵政選挙での大勝の一助となる。ブロガーとの懇談などもなされたが、この段階では総じてテレビに重点が置かれた。

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