「工場萌え」、東京圏にもまだ造形美があった 機能的で合理的で美しい工場を求めて
順に述べよう。
まず、黒部川第二発電所から。戦前につくられて今も当時のままに伝わるモダニズム建築としては最高のものといってかまわない。よくもまあ発電会社が当時としてはレアなモダニズム建築をつくらせたものだし、山口文象も黒部川上流の人跡未踏の地に工事用トロッコに乗って出かけ、これだけ質の高い建築を、正確にいうと建築に加えダム本体と鉄橋を実現した。
山口が1931年、ベルリンに渡ったのは次の3つの目的による。1つは、当時世界の最先端を走っていたドイツのダムと発電所に学ぶため。2つ目はあこがれのグロピウス校長のバウハウスに入学するため。3つ目は、地下化していた日本共産党のメンバーとしてドイツ共産党に資金援助を請うため。1つ目は果たしたが、2つ目はややハズレ。山口がドイツに着いてみると、グロピウスはナチスに追われてバウハウスの校長を辞めており、グロピウス事務所に入所する。3つ目の首尾については戦後も沈黙を守り、不明。
打ち放しコンクリートで仕上げられた
東京都水道局長沢浄水場は、山田守の設計になり、モダニズムというより、その直前のドイツ表現主義の影響を強く残す。具体的には、柱の上部がラッパ状に広がる造形がドイツ表現主義の特徴で、1920年代にドイツで流行り、それが若き日の山田守と同級生の分離派メンバーに伝わったもの。
しかし、山田以外の堀口捨己や石本喜久治は昭和に入るとバウハウスのデザインに転ずるのに、山田ひとりは生涯、ドイツ表現派的な曲線を好んでいる。表現派好みを残す東京都水道局長沢浄水場でモダニズムといえるのは、曲面が打ち放しコンクリートで仕上げられている点だろう。打ち放しは、コルビュジエの師のオーギュスト・ペレが世界で最初に試み、すぐ続けてコルビュジエに先行して在日米国人建築家のアントニン・レーモンドが挑み、以後、日本のモダニズムの得意技として定着し、今にいたる。
秩父セメント第2工場は、打ち放しコンクリートを駆使してつくられた工場建築としては、世界的にも画期的であった。谷口は、若き日にコルビュジエの強い影響下に東京工業大学の水力実験室(1932年)を手がけており、また設計に加えて佐野利器門下の構造の専門家でもあり、セメント会社の工場を鉄筋コンクリート打ち放しでつくることに、強い自負と自信があった。
山口、山田、谷口の鉄筋コンクリート造りの工場建築について書きながら、併行して思い浮かぶのは、レーモンド設計による工場だった。もし、東洋オーチスエレベーター工場(1932年)が残っていたなら、AEGタービン工場以来、世界の工場建築の主流であった、鉄とガラスの工場建築についても、述べることができたのに(『東京人』2017年5月号記事より一部を転載)。
(敬称略)
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