ベントレー「マリナー」の知られざる伝統 「特別な1台」を作り出す注文製作の凄み
16世紀の馬具製造工房に端を発するマリナー家のファミリービジネスが、コーチビルダーとして初めて認知されたのは、ノーザンプトンに本拠を構えたフランシス・マリナーが、郵政当局から正式な馬車製造を認可された18世紀末のこと。その後フランシスの親族たちは、イングランド各地で馬車を製作するコーチビルダーとなって活動した。
中でも20世紀初頭から、イギリスを代表する高級車ブランドを中心に数多くのボディ製作を委ねられることになったのが、先述した「H.J.マリナー」社である。ヘンリー・ジャーヴィス(Henry Jarvis)マリナーが、ロンドン近郊チズウィック設立した工房だ。
第二次大戦前のH.J.マリナーは、「ウェイマン式」と呼ばれるファブリック(布)製軽量サルーンボディの架装を得意とし、1923年のロンドン・モーターショーに出品した「3リッター・スピードモデル」を皮切りに、ベントレーの名作を多数手がけた。
例えば1930年3月に、ベントレーボーイズの一人で当時ベントレー社の会長でもあったウォルフ・バーナート大尉が、フランスの長距離特急列車「トラン・ブルー(ブルートレイン)」を相手に賭けレースを挑み、南仏カンヌ~ロンドン間のルートを、実に約4時間もの大差をつけて快勝した際の愛車も、ベントレー61/2リッター・スピードシックスにH.J.マリナーが架装したファブリック・サルーンだった。
ベントレーの特別性を象徴するブランドに
このように、長い伝統を持つ名門コーチビルダーのH.J.マリナーだが、その実力が真に世界で認められたのは、第二次世界大戦後となる1950年代に入ってのことからだった。
その他コーチビルダーを大きく凌駕するアルミニウムによるボディ架装技術と、インテリアのフィニッシュの良さが、ロールス・ロイス/ベントレー社の首脳陣の目に留まり、同社が試験的に少数製作する特別仕様車の製作を委託されるようになっていく。
そしてロールス・ロイス/ベントレー社所属のデザイナーであり、“ベントレーデザインの父”と呼ばれるジョン・ブラッチリーのデザインで1952年にデビューした「Rタイプ・コンチネンタル」は、プロトタイプを製作したH.J.マリナーが、生産モデルでも大部分のボディを架装。この歴史的成功によってベントレーとの絆を確たるものとした。
その後は、1955~66年までの「Sタイプ・コンチネンタル」、1966年から前世紀末に至る「コーニッシュ/コンチネンタル」、さらにはかつてのライバル会社、パークウォード社と合併してマリナー・パークウォード社となったのちも1992~2002年までの間、「コンチネンタルR/T」、あるいは「アズール」などスペシャルなベントレーの数々を一手に引き受けてきたのである。