強制収容75年、82歳日系人が語る屈辱の記憶 日系米国人が味わった恐怖とは?

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

一部の日系人は、当時の差別的な扱いと、トランプ大統領が先月署名したイスラム圏7カ国からの入国制限令との間に類似点を見いだしている。

「現在のイスラム圏に対する入国制限令への反応は、75年前に私の祖父母や両親に対して行われた強制収容への反応と同じものだろう」と、日系のマーク・タカノ下院議員は先月議会で語った。同議員の家族は第2次世界大戦中に強制収容所に入れられていた。

監視下の移動

元収容者のカンジ・サハラさんは、ロサンゼルスの自宅からわずか30分程度離れたサンタアニタパーク競馬場に設けられた収容所に到着したときのことを語ってくれた。サハラさんは当時8歳だった。

「地元のキリスト教会に送られると聞いていた。私たちを乗せるバスが10台か15台、待機していた」と、現在82歳のサハラさんは言う。「バスを降りると、駐車場に馬小屋とバラックが延々と並んでいるのが見えた。そこが私たちの住む場所だった」

同競馬場は収容された1万8000人以上の一時的な「集合センター」だった。そのなかには、テレビドラマ「スタートレック」シリーズで有名となる俳優のジョージ・タケイさんも含まれていた。

6カ月後、サハラさんと家族は定住先となるアーカンソー州ジェロームの収容施設に移送された。今回は列車での移動だった。

「各車両の終わりには見張りがいて、日よけは下ろされていた」と、当時の移動についてサハラさんは語る。

しかし、ジェロームでの暮らしは改善されたという。

「まず気づいたのは、1つのバラックに住む人数の違いだった。サンタアニタではほとんど動けないくらい詰め込まれていた」とサハラさん。「『ほら、私たちの地位が上がっている』と言ったものだ」

サハラさんと家族は1945年、サハラさんが11歳のとき、収容所を出ることを許された。オカザキさん一家は1944年7月に収容所を去った。自由を再び得るには、米国政府に忠誠の誓いを立てる必要があった。

オカザキさんは「抑留」という言葉を嫌い、「監禁」あるいは「収監」という言葉を好む。「私は市民であるから、捕虜ではない。抑留は、戦時中の敵国人を指している」とオカザキさんは言う。

1988年、当時のレーガン大統領は生存する元収容者に補償を行う法案に署名。元収容者は政府から2万ドル(約230万円)の補償金と謝罪を受けた。

(Melissa Fares記者 翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事