日本の過剰労働は、「お客様」の暴走が原因だ 理不尽な要求にノーといえる文化を作ろう

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そもそも、神とは、人知を超えた絶対的な存在で、信仰の対象をいう。人々は昔から、人間の力ではどうにもできないものを「神の仕業」「たたり」として恐れ、敬い、あきらめ、受け入れてきた。凶作になったとしても、神を責めることはない。「自分たちが悪かったから、罰が当ったのだ」とせっせと生け贄を捧げたり、祈ったりしていた。

この理屈をサービスにも当てはめると、客が傍若無人な振る舞いをしても、決して反論したり、拒否しないということになる。まるで自分の気持ちや時間を生け贄に捧げているようである。そして客側もそれに慣れてしまったため、「思うままに振る舞ってよい」と勘違いしてしまったのではないだろうか。そう考えると、日本の「お客様」は確かに「神様」のように扱われており、対等な関係とは程遠い。

客に茶を振る舞う、もてなしの作法の中から

一方、「おもてなし」に対して、少し違った見方もある。城西国際大学観光学部助教の岩本英和氏が、国際学術文化振興センターに所属する高橋謙輔氏と共同で発表した「日本のおもてなしと西洋のホスピタリティの見解に関する一考察」という研究レポートでは、おもてなし精神を理解するため、茶道を引き合いに出している。そこでは、「亭主は、客のために一身に濃茶を練り、その心を感じ取った客は心から感謝の気持ちを礼に込める」と書かれていた。

つまり「おもてなし」とは、まず客を思いやる気持ちがあり、客もその厚意を感じて感謝する、「互いに心地よくなるための心遣い」であったということだ。「おもてなし」が「互いが心地よくなるための心遣い」であったことを考えると、現在の不平等な客とサービス提供者の関係は、その精神とは真逆に位置している。

なぜこんなにも客の立場が上になってしまったのだろう。さまざまな要因があるだろうが、他社に負けないように、「サービス」という付加価値で勝負しすぎる傾向が強いことが原因ではないだろうか。値下げや品ぞろえでの差別化には限界がある。そこで、精神論でどうにかなる「サービス」で競争を勝ち抜こうという発想になるわけだ。空気を読むことに長けている日本人にとって、サービス精神を持つこと自体は難しいことではない。だが問題は、この状況を当然だと思ってしまった「お客様」の意識だ。

「過剰サービスを当然だと思う発想」を助長するものとしては、どこにでもあって、24時間営業が当たり前になっているコンビニがいい例だろう。30年ほど前は、お盆や年末年始は営業していない百貨店が多かったが、数十年で「年中無休が当たり前」になった。

かつては商店街でしか食材が手に入らず、夜は店が閉まっていたが、その不便こそが「普通」だった。「労働環境の改善により不便になる」という指摘も一理あるが、この感覚こそ、客が当然だと思って要求する過剰サービスの厄介さだ。それが過剰なサービスであっても、もう「当然」になっているため、当たり前のように要求する。店が閉まっていれば「不便だ」と言うくせに、店が開いていることに感謝しない。いくら企業が労働環境を改善しようとしても、過剰なサービスを求める客がいれば、労働者は仕事を終わらせることができない。ブラック企業をなくすためには、そういった悪意のない「ブラック客」の意識改革が必要だ。

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