渋谷駅は、なぜあんなに複雑になったのか 良くも悪くも「歴史の積み重ね」
現在、JR渋谷駅の一日平均の乗車人員(乗車のみの人員)は372,234人。JR東日本の駅で第5位にランクする。しかし、開業当時は利用客が少なく全く振るわなかった。『東京府統計書』には、渋谷駅開業から一年間の利用客数が残されている。これによれば、乗車人員6,438人、下車人員5,816人、1日平均にすると16〜17人/日ほど。現在の渋谷駅の様子からでは考えられないような数値である。
開業当初の品川線は単線で、運行本数は1日3往復。車両は1、2等の合造車に3等車という2両編成を蒸気機関車が牽いた。渋谷駅に配置された駅員は、駅長以下6名だったという(新修渋谷区史より)。
当時の渋谷界隈は、宮益坂や道玄坂、広尾の周辺に民家が密集していた程度で、駅周辺は田畑に囲まれていた。そもそも住人が少ないのだから、利用が振るわないのは無理もないだろう。
人影がまばらだった渋谷駅も、明治20年代後半になると鉄道の利便性が人々の間に認知され、目に見えて利用者が増加した。やがて宅地も増え、郊外や都心からの鉄道路線が渋谷を目指して乗り入れるようになる。
ターミナル駅として急成長
1907(明治40)年8月、玉川電気鉄道(後に東急玉川線、地下化され新玉川線を経て、現在の田園都市線の一部)が道玄坂上から渋谷駅前へ延伸開業。1911(明治44)年8月には、東京市電(後の東京都電)が渋谷駅前への乗り入れを開始した。
国有化され、名称も品川線から山手線の駅となった渋谷駅は、1916(大正5)年に半円形の大きな採光窓と時計塔が特徴的な、2代目駅舎が現在のハチ公口付近の地平に竣工。同時期に渋谷駅周辺の高架工事が行われ、工事完了後、現在の場所に駅が移転した。玉川電気鉄道は山手線との立体交差が可能となり、天現寺橋へ至る「天現寺線」を、1922(大正11)年に渋谷橋までの区間で開業している。
昭和になると、東急電鉄の前身である東京横浜電鉄が1927(昭和2)年に開業、1933(昭和8)年には帝都電鉄渋谷線(現・京王井の頭線)が相次いで開業した。渋谷駅は東京南西部のターミナルとして発展を遂げてゆく。
なかでも東京横浜電鉄は、渋谷の街を大きく変える存在となったが、その中心的人物が実業家の五島慶太。関西で阪急沿線の田園都市開発に成功をおさめた小林一三を手本にし、沿線に娯楽施設を建て、また多くの学校を誘致した。
渋谷駅においては、梅田駅の阪急百貨店に習って「東横百貨店」が設置された。渋谷駅の東に建てられたのは、地上7階、地下1階、3600坪の鉄骨鉄筋コンクリートビル。設計者は和光の銀座本館などを設計した建築家の渡辺仁。白亜のビルが、渋谷の街で輝きを放ったことだろう。
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