結局、京急は延伸計画の縮小を決定。三崎地区に乗り入れる区間の事業廃止が1970年7月20日付で許可された。その一方、三崎地区から北へ約3km離れた油壺地区までは計画を維持し、同年11月9日付で三浦海岸~油壺間の工事施行が認可。1973年10月から同区間の工事が始まった。
しかし、三浦海岸駅から2.2km先の三浦市初声町(国道134号との交差部)までは工事が進んだものの、その先は用地買収の難航などもあり、開業のめどが立たなくなってしまった。そこで京急は、初声町に当面の終点となる三崎口駅を整備。1975年4月に開業した。
三崎口駅はあくまで暫定的な終点であり、京急は油壺駅までの延伸を諦めたわけではなかった。実際、線路終端部の先を遮る格好となっている国道134号の下にはトンネルが整備され、久里浜線は134号の下をくぐって延伸できるようになっている。運輸大臣の諮問機関だった運輸政策審議会も、1985年と2000年に答申した東京圏の鉄道整備基本計画で、三崎口~油壺間の整備を盛り込んだ。
廃止後も計画再開に「含み」
しかし、その後も計画の進展は見られず、京急も空港線の羽田空港乗り入れプロジェクトなどへの対応に追われ、油壺延伸は忘れられたような存在になっていく。そして2005年10月、京急は三崎口~油壺間の事業廃止を国土交通大臣に届け出て、同年12月24日付で廃止された。
こうして鉄道法規上は幻に終わった三崎口~油壺間だが、当時の京急は「鉄道事業法の改正で事業許可の再申請が容易になったので、いったん計画を取り下げる。沿線の土地区画整理事業などの進展を見ながら再申請する」などとし、将来の計画再開に「含み」を持たせた。
だが、鉄道事業の廃止から10年が経過しても、再開に向けた動きは一向に見られなかった。そして今年3月、京急は久里浜線の延伸事業と、沿線の大規模宅地開発事業の凍結を取締役会で決めた。これを受けて、棚卸資産の評価損など約150億円を売上原価、減損損失約30億円を特別損失として計上することになり、前2015年度の連結決算が最終赤字になったのだ。
京急は、「三浦半島の人口減少や地価下落」を理由に凍結を決めたと発表したが、国勢調査によると、三浦市の人口は20年以上前の1995年をピークに減少が続いており、人口減少は今に始まったことではない。なぜ、ここにきて凍結を決定したのかという疑問は残る。
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