駐日イラク大使、イラク復興へ、日本への期待を語る
2011年にも米軍が撤退する予定のイラク共和国(以下イラク)が復興に向けて動き出した。「イラクの治安は劇的に改善した。2009年の下期にはバクダッドで日本イラク経済フォーラムが開催される。そこで日本の経済界の方に治安が改善したイラクを見てほしい」--カーニム・アルワン・アル・ジュマイリ駐日イラク大使は語る。ジュマイリ大使はフセイン政権崩壊後では初の駐日大使として04年10月に着任した。近く4年半の日本在任を終えて、サウジアラビア大使となる。離日を前に3月18日、日本財団で講演を行った。その中で、同大使は日本とイラクの関係の深さを指摘し、今後のイラク復興にあたっての日本の経済的、技術的支援について期待を表明した。
同大使によると、1970年代から80年代のサダム・フセイン政権時代、日本はイラクにとって、最大の貿易相手国だった。当時のイラクはオイル・マネーを原資に、急速なインフラ整備を進めた。日本政府はイラクにODA(政府開発援助)を供与し、日本企業も関連したインフラ整備に参画した。
その当時、日本の建設会社がつくったバクダッドの建物には、現在世界各国の外交官が住んでいる。同大使は、「日本の建設会社の工事は高く評価されている」と語る。また、その頃、「トヨタ自動車にとってイラクは米国に次いで2番目に大きな市場だった」という。
同大使は、「私の兄が1977年製のクラウンに乗っているが、今でもしっかり乗っている。兄はこの次もクラウンがほしい、と語っている」というエピソードを紹介する。
「この時代、日本の耐久消費財はイラク人にとってなじみのある存在だった」という。大使自身、イラクでは、「20年以上経ったナショナルの洗濯機を今でも使用している」と語る。
ところが、1991年の湾岸戦争とその後の国連によるイラクに対する経済制裁は、日本とイラクの経済関係を断ち切った。「日本企業は厳格に制裁を順守した。(国連が認めた)石油と人道物資(食糧、医薬品など)の交換を名目にイラクとの通商関係をこっそり続けた国もあったが、日本はそうではなかった」。
国連の経済制裁下、「第3世界では例外的に分厚かったイラクの中産階級が没落し、イラク国民は貧しくなった」。イラクの通貨ディナールは1977年に1ディナール3・7�だったが、その後ドルに対して1万2000分の1に下落する。イラクの通貨は紙くず同然になった。さらに、その後、2003年の米国によるイラク侵攻とその後の治安の悪化という悲劇が続く。