日本政府の紋「五七の桐」を知っていますか 国際人にふさわしい教養を身に付けよう

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これは“五七の桐”と呼ばれる日本政府の紋章だ。しかし、その歴史背景を知る人は多くないのではないか。

「五七の桐の由来は今から1200年以上前に、嵯峨天皇によって創案されました」

銀座で「きものギャラリー泰三」を経営する高橋泰三氏によれば、“五七の桐”にはそれを作った嵯峨天皇の「思い」が込められているという。

「古来から、聖天子の時代が来るとその瑞兆として鳳凰が現れると伝えられていますが、鳳凰は桐の木に宿り、竹の実をついばむとされています。すなわち桐は聖天子の象徴であるため、この故事を愛でた嵯峨天皇は、桐花をモチーフにしてこの紋章を作ったのです。きっと、自らを聖天子だと誇示したかったのでしょう」

日本の文化に込められた先人の思い

嵯峨天皇は平安京に遷都した桓武天皇の二男で、その治世は薬子の変など混乱もあったが、おおむね新しい時代の気風にあふれていた。嵯峨天皇自身も三筆のひとりでもあり、華道もたしなんだために嵯峨御流の開祖と言われた。文人政治家として華やかな平安文化の基礎を作ったとされている。

その京都で高級呉服を扱ってきた高橋氏は、日本の文化には古(いにしえ)の人の思いが込められており、それが歴史をかたちづくってきたと述べる。

「平安時代末期から鎌倉時代にかけて、後鳥羽上皇が菊を愛で、衣服や調度品などに菊紋を付けていました。菊は蘭、竹、梅と並び、草木の“四君子”とされるめでたい花です。晩秋にりんと花弁を持ち上げて咲く菊は、その姿から高貴な花とされていました。旧暦の9月9日には『重陽の節句』を祝い、菊花酒を飲んで長寿を祈ったのです」

菊といえば、能の曲目に「菊慈童」というのがある。酈縣山から薬水がわき出ていると聞いた魏の文帝が臣下を使わすと、山の奥で周の穆王に仕えていたという少年に会う。周の穆王の治世から魏の文帝の時代まで、700年という長命をこの少年が得たのは、菊のパワーを秘めた薬水のおかげだったというのがこの曲目のあらすじだ。ここでも菊の花がめでたいことを示している。

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