中原氏が日銀入りしたのは「論客として知られていたことが大きい」(日銀OB)とされる。
旧法時代の政策委員会は存在感が薄く、「スリーピングボード(眠れる委員会)」と揶揄された。改正日銀法で生まれ変わった政策委員会を活性化するため、当時の有力幹部が「中原氏に白羽の矢を立てた」(日銀OB)と言われていた。
実際、金融緩和が行き詰まったとみられた中で、新たな緩和手法を唱えた中原氏の注目度は高かった。また、当時、審議委員であった植田和男・現日銀総裁と量的緩和の有効性をめぐって熱い論戦を行ったことでも知られ、政策委員会の活性化に貢献した。
「財政出動より金融緩和」が元祖
当時、「リフレ派」という呼び方はなかったが、便宜的に中原氏を「リフレ派」としたい。その上で、90年代後半のマクロ情勢と金融政策論を改めて整理したい。




















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