古都の名物「よもぎ餅」、"高速餅つき"で作り続けて30年以上。《社長が語る半生》挫折の先に見つけた一生の仕事、守り続ける母の味
中谷さんが会社を立ち上げて今年で35年。2年前に定休日を設けたが、それまでは台風の日以外ほぼ休みなく餅をついてきた。
その年月を裏打ちするように中谷さんの手のひらは分厚い皮膚に覆われ、ごつごつとしていた。
彼はいかにしてこの事業を築き上げ、コロナ禍をも乗り越えてきたのか。その半生には、餅に込める揺るぎない情熱と、独自の経営哲学があった。

挫折から生まれた「餅づくり」
中谷さんの餅つき人生の原点は、奈良県吉野郡上北山村にある。深い山間部で生まれ育った中谷さんは、「本当に山ばかり」と故郷を振り返る。
幼少期から、中谷家の自宅には臼と杵があった。地域では親戚一同が集まって餅つきを行う文化が根付いていたという。この餅つきの伝統を愛し、また非常に巧みであったのが、中谷さんの母親だった。
「(中谷堂を立ち上げる)きっかけは母親ですね。母はあんこを炊く名人で、うちの餅づくりは基本的には母のやり方でやっています」

高校卒業後、中谷さんは父親の建設業を継ぐつもりで、近畿大学の商学部商学科(現在の経営学部商学科)に進学しつつ、並行して大阪の土木専門学校にも通った。その後、バブル経済の最中に建設会社で3年間の修業を積んだ。
しかし、地元に戻った彼を待ち受けていたのは、予想外の展開であった。父親から「会社は長男が継ぐから、何か別の商売をしろ」と告げられたのである。専門学校にも行き、経験も積んだ後に聞かされたこの言葉は、彼にとって「寝耳に水」であり、「なかなか複雑なものがあった」と当時を振り返る。
だが、中谷さんはすぐに気持ちを切り替えた。「一生懸命やってきたんだから、この経験は無駄にはならない」と考え、次の商売を模索する。
その中で、母親が得意としていた団子や餅で商売することを決めた。この決断を後押ししたのは、青年まちおこし活動で町のお祭りに参加した時の経験である。
中谷さんが地元で古くから伝わる「高速餅つき」を披露すると、観客から歓声があがったのだ。自分にとっては見慣れた文化である餅つき。客の意外な反応に驚きつつ、心が高揚した。でき上がった餅には買い求める人の行列ができ、「美味しい」と喜ばれた。
この光景が、「これ、商売にできる」という揺るぎない確信につながったのだ。
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