「山の茶屋が消えていく…」 上皇陛下が訪れた老舗も直面する、"登山者の砦"の構造疲労
山頂には昭和初期から営業している茶屋がすでに1軒あったが、トキさんは懸命に働き、小学生だった小池さんも弟と共に荷揚げを手伝って母を支え、信玄茶屋は多くの登山客でにぎわうようになった。
すると「儲かる商売」だと思われたのか、山頂付近のわずかな土地に次々と新たな茶屋が乱立するようになった。
「一時は8軒まで増えましたが、わずか数年で撤退していきました。電気も水道もないし、すべて人力で荷揚げしなければならないので儲かる商売ではないし、生半可な覚悟ではできませんからね」(小池さん)
登山客世界一の高尾山エリアでも相次ぐ廃業
小池さんは中学を卒業すると郵便局に就職し、配達の仕事をしながら夜間に定時制高校に通った。高校卒業後は局内の試験に合格し、銀行・保険業務を担当する職員として勤務した。社会人になってからも休日や勤務時間外に母の茶屋の荷揚げを手伝い続けた。
「当初は荷物を背負って運んでいましたが、その後は手押しの一輪車、エンジン付きの三輪車の時代を経て、現在は400キロ積載できるクローラーで荷揚げをしています。昔に比べたら、だいぶ楽になりました」(小池さん)
そして、2007年(平成19)年の郵政民営化を機に早期退職し、高齢で足腰の弱ってきた母から信玄茶屋を引き継いだ。
「儲からないのはわかっているのですが、私もずっと手伝ってきたし、母が人生の大半を捧げた茶屋ですからね。どうしても守りたくて、妻にわがままを聞いてもらいました。母が亡くなってからは、妻も一緒に店を切り盛りしてくれています。頭があがりません」(小池さん)

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