「リスクのある手術か、投薬か」人生の“究極の選択”で重視すべきこととは?《ノーベル賞受賞者》が考案した「決断」の賢い方法

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ただし、専門家の意見を必要とすると、3つの難問が立ちふさがる。ひとつは、自分に特定の知識がない状態で、「自分に必要な情報はどういうものか」や「その分野で信頼できる専門家は誰か」といったことをどうやって考え始められるというのか? 次に、信頼できる専門的な意見が見つかったとして、それを決断にとって重要なほかの要素――価値観、感情、目的――と、いつどのように組み合わせるのが適切なのか? さらには、どうすれば論理的かつ個人の自律性を尊重した決断ができるのか、つまり、決断の最終的な決定権を、誰にどのような理由で持たせればいいのか? 

専門家と「偽りの専門知識」

今日では、科学は複雑なものだと相場が決まっている。たしかに、科学は数理モデルを使って発展しているし、そういうモデルを理解できる人はごく少数だ。何年にもわたって教育を受けないと理解できるようにはならない。
 そうすると、何の疑問も持たずに、専門家の助言という名の命令(「どうせ数式は理解できないのだから、黙って言われたとおりにやれ」)に従う人が出てくる。その一方で、何も知らないという立場にいると自分の力が奪われたように感じ、機会を見つけては専門家の足を引っ張る人や、専門家の話に耳を貸さない人もいる。

このジレンマは、新型コロナウイルスのパンデミックでとりわけ顕著に現れた。科学者は世間にたくさんの助言を与えた。「マスクはつけるな」「マスクをつけろ」「ワクチンを接種すればコロナにかからない」「ワクチンを接種すればコロナに罹っても重症化しない」という具合だ。

だが、そうした助言の根拠を理解していた人や、助言の内容が刻々と変わっていったように見えた理由を理解していた人はほとんどいなかった。それどころか、ウイルスがどういうものかを説明できる人や、科学者が提示する対策がウイルスへの感染をどのように防ぐのかを説明できる人すらほとんどいなかった。

このような状況で「自律性」を保つには、自分に相容れない情報をすべて遮断するか、専門家のなかからもっとも信頼できる人物を選ぶかのどちらかしかないように思える。

パンデミック下で(質にばらつきがある)情報過多が混乱を招いた問題は、氷山の一角にすぎない。その背景にはもっと普遍的な問題がある。人が具体的に関心を持ちうるテーマであれば、ほぼどんなものについても溢れんばかりの情報が存在する。

自分の知りたいテーマがわかっていて、それについていちばん信頼できる情報を見つけたいとなったとき、どうすればその情報にたどり着けるのか? 誰を信頼すればいいのか? 複数の専門家がいるなかで、何を根拠に信頼するべきなのか?

現実に即した決断を行うにあたって正確な情報が必要になったとき、とりわけ気にかかるのが「自分が使おうと思っている情報源は“役に立つか”」という点だ。

農業を例にあげよう。人は長きにわたって農業を営んできた。その起源はおよそ1万2000年前にさかのぼる。これから農業を始めるとなれば、トウモロコシを育てるのに最適な時期ひとつとっても、それを見つける方法はいろいろある。とある宗教のリーダーの言葉を信じる人もいれば、星の動きでトウモロコシのタネを蒔くべき時期がわかると豪語する占い師の言葉を信じる人もいるだろう。宗教家や占星術師の言葉は、一定の環境でなら役に立つかもしれない。彼らのような立場の人は、その土地の条件に見合うように、何世代もかけてメッセージを調整できるだろう。

一方、科学的なアプローチ―実験と観察―には、とてつもなく大きなメリットがある。タネはタネでも、より優れた種類があるかもしれないし、より効率的な水のやり方があるかもしれない。それらを見つけるには、種類の異なるタネや異なる水のやり方を試し、どれが最高の結果を出すかを観測すればいい。

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