「ふてほど=不適切報道」に見たテレビ報道の凋落 「ニュートラル」に立ち位置を変えたらどうか
では兵庫県知事選挙でのマスコミはどこがまずかったのか。もっとも強く感じたのは、選挙が終わった翌日、ニュースや情報番組で一斉に「SNSが結果を動かした選挙」として伝えた時だ。そのことを、SNSなんか偽情報だらけの問題空間で信じてはいけないと批判するばかりか、テレビは法律の縛りがあって選挙期間中は報道できない、ネットはそうした縛りがなくていいのか、と言い出した。私は二重にとんでもないことを言っていると感じた。
まず、テレビが選挙期間中に報道しないのは、法律の縛りではなく自主規制だ。放送法には「政治的公平」について書かれているが、選挙報道をするなとは書いていない。選挙期間中に候補者の言動を報じると各政党が秒単位で放送時間をチェックし、自党の扱う時間が少ないとクレームをつけてくる。それぞれの時間をピッタリ同じにすると結局まっとうな選挙報道ができず、言ってみれば厄介だからあまり選挙報道をしなくなったのだ
「我々には縛りがある」と局のアナウンサーや解説者たちが言うのは、それこそ誤情報なのでやめるべきだ。
そういう自主規制で選挙報道をしないのに、選挙が終わってからSNSは間違いだらけと言うのは、報道に携わる者として恥ずかしくないのだろうか。だったら、その間違いを正す報道をすべきではなかったか。立花孝志氏についても一斉に批判を始めたが、誤ったことを主張したり斎藤候補を当選させたいなどと言い出した時点で報じるべきだった。後出しジャンケンで批判してもカッコ悪いだけだ。
報道とは「事実を調べて社会に示すこと」
二重にとんでもないと書いたが2つ目は、そもそもこの選挙は斎藤氏が告発されたりパワハラだと伝えられたりしたことに端を発した。立花氏に限らず、斎藤氏批判への逆批判が高まっていた。百条委員会も結論が出てないのに議会が不信任案を出した。
テレビ報道は当初、まるきり斎藤氏を批判する側に立っていたし、連日ニュースやワイドショーで告発者を自殺に追い込んでパワハラとおねだりのどうしようもない知事と伝えていた。見ている私もそう思ってしまった。
だがいま、正直斎藤氏批判は正しかったのか大いに疑問に感じている。だからといって斎藤氏支持に回るつもりもなく、一体何がどうだったのかを最初から捉え直す必要があるとも思う。
だがテレビ報道はそこまで立ち戻ることはせず、相変わらず斎藤氏を悪い知事扱いするままだし、選挙後に噴出した「PR会社疑惑」を連日朝から晩まで報じた。そこでも、PR会社と斎藤知事をハナから悪者扱いしている。公職選挙法違反と断じる側の弁護士ばかりに解説させる。だが違反と断じるほどの情報はないとの見解を示す弁護士もいた。悪人扱いをするのは早いのではないか。雰囲気で悪人扱いしてきたことへの反省はないのか。
斎藤氏を取り巻く問題は、調べれば調べるほどわからなくなる。いま知りたいのは、悪いか悪くないかではなく、最初から「事実を調べ直して世の中に提示する」ことだ。そして事実を調べて社会に示すことこそが報道ではないのか。その上で何が悪くて悪くないかは司法の仕事であり、社会の側が考えることだ。テレビ報道がやってきたのは、社会的処刑に近い。PR会社の社長が選挙法違反かどうかを決めるのは、メディアでも視聴者でもなく、司法だ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら